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三話 今日からおまえは俺の弟だ 14
「……初めまして、杏の父の夏目兼一(なつめ けんいち)です。奏くん、とお呼びしていいのかな」
もうひとつ足音が聞こえて顔を上げると、木綿子の隣に五十代半ばほどに見える男が立っていた。
「えっ、あ、は、はい……。は、初めまして」
これが杏の義父か。どこにでもいそうな壮年の男性だが、その顔は疲労の色が濃く浮かんでいた。
「わざわざ足を運んでもらってすまないね。ほんとうだったら私のほうから出向かなくてはならないのに」
「いえ……」
この家で会うことを望んだのは奏自身だ。外で会うのも気が向かず、かといって家へ呼ぶ気にはとてもなれなかった。
「どうぞ上がってください。もともと奏くんが暮らしていた家なのに、私が言うのもおかしいかもしれないけれど」
兼一は少し困ったような顔で笑った。
「ほら、お兄ちゃん、上がって。お兄ちゃんが家にくるの久しぶりだよね」
杏の声はわざとらしいほど明るかった。妹に気を遣わせていることに恥ずかしくなったが、今日はいつも以上に言葉が出てこない。
話し合いはリビングルームでおこなわれた。話し合いといっても大してすることもない。『今日から三年間、毎月九十万を無利子無催促で 貸与する。ただし学費として使用した分は返済の必要はない』という旨の書かれた紙へサインをしてもらえば、話はそれで終了だ。
兼一は奏に向かって何度も頭を下げた。年上の人間に謙られるのはあまり気持ちのいいものではない。だいたい金を貸すのは杏のためであって、その両親のためではないのだ。
「い、いいんです……。僕には、ひ、必要のない金ですし……。あ、杏が大学にいけるなら、そ、それで……」
いつも以上に舌が上手くまわらない。
兼一はこの家と土地を売却する予定だと、奏に説明した。君の生まれ育った家を守れなくて申し訳ない、と謝られても、奏はなんと返事をすればいいのかわからなかった。この家に愛着がないわけではないが、いまとなっては実家という感じもしない。今日が終わったら、もう二度と訪れることもないだろう。
「奏くんからお借りするお金と、家と土地を売ったお金で、会社を潰さずにすみそうです。杏の大学資金まで出してもらえるそうで、ほんとうにありがとう」
「いえ……あ、杏は僕の妹ですから……」
あなたにお礼を言われる筋合いはない。嫌味な言葉はどうにか呑みこむ。母に対する複雑な思いはあっても、兼一自身には恨みもなにもないのだ。
奏はパソコンで作った書類にサインをもらったらすぐに帰ろうと思ったのだが、腰を浮かせる前に木綿子がコーヒーのおかわりを運んできた。
「でも、大丈夫なの? 魔族と同居だなんて」
木綿子はコーヒーをテーブルへ並べると、夫の隣へ腰を下ろした。心配そうなまなざしを奏へ向ける。
奏はすっと視線を逸らした。捨てた子供のことなんてどうだっていいじゃないか。いまさら母親面するなよ。
反抗期の少年じみた思いが止めようもなく湧いてくる。
ふたりには『このことは他言しないで欲しい』と前置きした上で、魔界の王子ミハイエルと同居することになったこと、その手当てとして毎月百万が支払われることを話してある。金の出所について説明しないと、兼一はともかく、木綿子はとても納得しそうになかったからだ。
「大丈夫だよ、お母さん。ミカくんってすごく感じのいい人なんだから」
奏の隣に座ってじっと話を聞いていた杏は、母親の不安を掻き消すように明るい声を上げた。
「感じがいいだけじゃなくって、ものすごーくかっこいいの。まるでモデルさんみたい」
「おい、杏。まさかその魔族の王子様を好きになったとか言うんじゃないだろうな」
兼一は腰を浮かすと、問いつめるような口調で娘に訊いた。
「別にそんなんじゃないけど。テレビに出てる芸能人を見て、かっこいーって思うのとおんなじようなもの」
「杏ももう十七なんだから、男女交際禁止とまでは言わないけど、相手はせめて人間の男にしておいてくれ。魔族と人間だなんて上手くいきっこないんだから」
「誰もつきあうだなんて言ってないでしょ」
杏は呆れきった目を父親へ向けたが、こればかりは奏も兼一に同意だった。
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