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三話 今日からおまえは俺の弟だ 15

 奏と杏は駅へ続く道を並んで歩いていく。ひとりで帰れるからと言ったのだが、杏は駅まで送っていくといってきかなかった。 「今日はありがとうね、お兄ちゃん」  杏は歩きながらぽつりと言った。 「私やお義父さんのためにごめんね。就職したらちゃんと返すから」  思いがけないことを言われて、足が止まった。 「なにいってるんだよ。金を貸すんじゃなくって、おれが学費を出すっていう話だよ。書類にも学費にかかった分は返済しなくていい、ってちゃんと書いてある。だいたい返してもらうんじゃあ奨学金と変わらないだろ」 「私の気がすまないよ」  杏の視線も口調も思いがけないほど強く、奏はたじろいだ。 「私、いっつもお兄ちゃんに迷惑ばっかりかけてる。お兄ちゃんだってほんとうはお母さんと暮らしたかったんだよね」  痛みを堪えるかのように、杏は唇をきゅっと引き締めた。 「杏――」 「私がいなかったら、お兄ちゃんがお母さんと暮らしてたのに」 「でも、おまえは生まれてきたんだよ。生まれて、すくすく育って、もう子供とは呼べないくらいに成長した。おまえがいてくれてよかったよ。ひとりっ子じゃなくってよかった」  本心からの言葉だった。  母親を憎んではいても、杏が生まれてこなければよかっただなんて、一度だって思ったことはない。杏がそんなふうに自分を責めていただなんて、少しも気づかなかった。 「杏が大学を卒業して、幼稚園の先生になって、結婚して、子供が生まれたら、心残りはなにもないな」  奏は先ほど杏がしたように手をつなぐと、ふたたび道を歩き出した。 「……なにそれ。私のことばっかり。それにまだまだ先は長いよ。結婚とか、子供とか」 「これから先をのんびり楽しみにしてる、ってことだよ」 「私の前にお兄ちゃんでしょ。子供が生まれたら、私の働いている幼稚園に入れるって言ってたよね。私もお兄ちゃんの子供を教えるの、楽しみにしてるね」 「そんなこと言いましたっけ……?」 「いいました」  杏はきっぱりと言った。 「私いい先生になれるようにがんばるから、お兄ちゃんも婚活がんばってね」  いたずらっぽく笑って立ち止まる。気がつけば駅の前までやってきていた。  じゃあまたな、と手を振って駅の出入り口へ向かうと、 「お兄ちゃん、ありがとう。私がんばるからね」  杏はまわりの人間が振り返るくらい大きな声で言うと、子供みたいに手をぶんぶんと振った。

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