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第2話

 それもこれも、みな、大無間山の巴陵が悪いのだ。  御座山で一番若い、半人前の小天狗、青葉(あおば)がつぶやいた。  天狗に生まれたといっても、まだ修行中の身。生まれつき強い通力を宿していても、使える術はいくつもない。一人前の天狗の証である羽団扇もまだ授けられておらず、名も烏天狗らと変わらない、いわゆる幼名を名乗っている。  青葉はその名にふさわしく、瑞々しい若葉のように美しい、十七、八の少年の姿をしていた。  白衣という上衣と白い袴をまとうが脚絆はつけておらず、裾からすんなりとした脛がのぞいていた。  濡羽色の髪は背を覆うほどに長く、ひとつに結んでいる。  切れ長の瞳は髪と同じく青みがかった黒で、その下にすっと伸びた鼻と小さめの口が品よく並んでいた。  青葉が一本足の高下駄で勢いよく山道を歩くごとに、背中で艶やかな髪が弾む。  そう、青葉は山道を歩いていた。  天狗の証である背の羽根は、右羽根が根元から折れていたからだ。  斜めに傾いだ羽根は飛ぶことはおろか、羽ばたくことさえできない。だから、青葉はこうして――天狗であるのに――人のように山を歩いて移動している。  高室の張った結界を越えるあたりで、「おや、青葉」と、声をかけられた。  声の主は、御座山に住む蝦蟇の妖であった。名は源蔵(げんぞう)という。  御座山の天狗たちの誰よりも長生きしているという噂の持ち主だ。  天狗のように強い霊力を持ってはいないが、人――小柄な老爺――に姿変えができ、薬作りを得意としている。  中でも、源蔵からとれる油を使った軟膏は、どんな傷でもたちどころに治すと評判で、その軟膏を求めて御座山を訪れる妖や人もいるくらいである。  青葉が源蔵のもとへ駆け寄ると、源蔵が蝦蟇の面影の残る顔に笑みを浮かべた。 「青葉よ。宿堂の掃除は終わったのかい?」  宿堂というのは、天狗のための炊事場や寝泊まりする部屋からなる建物のことだ。 「さっきね。これで日暮れまで仕事はないから、こっちまで水珠(すいしゅ)を探しにきたんだ」  源蔵が懐に手を入れると、屈託なく笑顔を返す青葉に、小さな紙包みをさし出した。 「昨日来た客が、土産といって置いていったものだ。青葉に会ったら食わせてやろうと思ってな、こうして持ち歩いていたのよ」  源蔵から紙包みを受け取ると、青葉が破顔一笑した。 「ありがとう! なんだろう?」  紙包みを開けると、小さな一口大の饅頭が四つも入っていた。  早速、青葉は饅頭を指で摘まみ、口に入れた。 「甘くて美味しい!」  そういいながらも、青葉は次の饅頭に手を伸ばし、源蔵にさし出した。 「源爺、一緒に食べようよ」  源蔵に饅頭を渡すと、青葉が手頃な岩に腰をおろした。その隣に源蔵が座る。 「おまえにやろうと思って持ってきたのだから、全部、青葉が食うてよいのだよ」 「一緒に食べたいんだ。美味しいものって、誰かと一緒に食べた方が美味しいから」 「相変わらず、仲間外れにされているのか。あれ以来、天狗はおろか、烏天狗どもにも邪険にされて、食事もひとりで食べているのだろう」 「まあね。……この羽根じゃ、嫌われてもしょうがないよ。飛べない天狗は、天狗じゃないから」  寂しそうにいうと、青葉がふたつめの饅頭を口に入れた。 「……すまないなぁ。怪我をしてすぐに儂の薬を使えば、その羽根も治せたろうに」 「高室様のご命令なんだから、しょうがないよ。高室様のいいつけを破ったら、源爺がきつい罰を受けただろうし」 「しかし、その羽根では、一生半人前。念者もできまいて。それでは寂しかろう?」  念者、の言葉に青葉の肩が小さく揺れた。  天狗は男だけの種族であるが、それでも性欲はあるし、誰かを愛する心もある。  同じ種族の天狗だけではなく、人の子や他種族の妖と結ばれることもあった。  そして、天狗が体をつなげ、本心から愛しいと思った時、愛した相手の手の甲に紋が浮かびあがる。  これを、念紋といい、一種の呪いであった。  念紋は、天狗によって模様が違っている。その天狗の力、性格、存在そのものの在り方が紋として現れているからだ。  こうして浮かんだ念紋は、そのものに不思議な力がある。  遠くにいても、存在を感じられ、相手の状態がわかる。  念紋の受け手がそこに触れると、念紋を送った相手の、想いを感じる。  天狗の念紋を受けた者を念者と呼び、中でも、天狗同士で念紋を交わした場合、性行為において挿入する側を念兄、受け入れる側を念弟と呼ぶことになっている。  空を飛べなくなった俺は、天狗とはとても認められない半端者だ。そんな俺を愛してくれる天狗なんて、いないだろう。 「しょうがないよ。念者のいない天狗は多いし、俺だけじゃないもの。それに、俺は誰かとまぐわったこともないから、念者がいるってこともよくわからないからさ」 「念者ができないといえば……そう、大無間山の巴陵が有名であったな。あいつは、天狗はおろか人の子や妖とも、節操なしに体をつないでいるが、一度たりとも念紋が相手に出たことはないというなぁ」 「……巴陵の噂話なんてしないでよ。俺、あいつのこと、大嫌いなんだから」  以前から何度も噂は耳にしていたが、青葉は巴陵とは一度しか会ったことがない。  間近で見た巴陵は、噂通りの男前であったが、青葉の心証は最悪だった。  いや違う。会った時は、むしろよい印象を持ったのだ。  だが、その後のできごとにより、青葉の巴陵に対する評価は地に堕ちていた。 「卑怯なことをする人には、見えなかったんだけどなぁ……」  青葉の記憶に残る巴陵は、おおらかそうで、着流し姿でやたらと派手な錦の羽織がよく似合う、赤茶の髪に金色の瞳をした、立派な天狗であったのだ。  けれども、その巴陵が青葉が父のように慕う高室の宝物を盗み、高室を深く悲しませたことは、どうしても許せなかった。  絶対に、許せない。いや、許してはいけないと、青葉は固く思う。  黙りこくる青葉に、源蔵が話しかける。 「のう、青葉。おまえさんが宿堂にいづらいのであれば、儂と一緒に洞窟に住むか?」  源蔵は、天狗たちの住処――高室坊と呼ばれる――から少し離れた、天然の洞窟に住んでいる。  一年を通して気温の変化が少ない洞窟は、薬草の保存に最適だからだ。 「ありがとう、源爺。でも……もうちょっと頑張ってみる。今は高室様が俺を疎んじているから、みんなも冷たくするけど、高室様が俺を許してくれたら、みんなとも元通り、なかよくなれるから」 「そうか……。おまえさんの気が変わったら、いつでも儂の洞窟に来るといい。儂はいつでも大歓迎だからのう。おまえさんさえ望めば、儂がおまえの念者になろう」 「源爺が、俺の念者に?」  思いもかけないことをいわれ、青葉が瞬きして聞き返した。  青葉にとって、大天狗の高室を父とするならば、源蔵は祖父のような、肉欲を超えた大事な存在であった。  源爺が俺の念者に? そんなこと、考えたこともなかった。 「俺、は……」   青葉がいいかけた時、ふたりの頭上に羽音とともに影がさしかかった。 「こんなところにいたか、この、羽折れめが」  野太い声とともに、天狗の阿嘉(あよ)がふたりの正面に降り立った。  阿嘉は、天狗の中でも大柄で、二の腕など青葉の太腿よりも太い偉丈夫だ。  大樹の幹を思わせる太い首の上には、黒々とした眉にぎょろりとした瞳、しっかりした鼻に、大きく厚い唇という濃い顔がのっている。  阿嘉は、高室に心酔していて、わざわざ他の霊山から御座山に山移りしてきたほどだ。 それだけに、高室から冷たく扱われるようになった青葉へは、きつくあたる。 「仕事が終わったのなら、宿堂でおとなしくしていればよいものを……。こんなところで油を売りおって」  阿嘉が大きな目で青葉を睨みつける。 「違います。俺は、水珠を探すため、ここまで来たんです」 「この、たわけ者めが。水珠がこんなところにあるわけなかろう! それにどうして、蝦蟇の妖などと一緒にいたのだ!?」 「源爺には、偶然会ったんです」 「もうよい。このようなやりとり、するだけ無駄よ。……高室様がお呼びだ」  たくましい腕が伸び、青葉の首根っこをつかんだ。次の瞬間、ふわりと青葉の体が宙に浮いた。急いで青葉は源蔵に手を振る。 「源爺、またね! お饅頭をありがとう!」  阿嘉はぐんぐんと上昇し、あっという間に高くそびえる杉のてっぺんを越えた。  ……あぁ、空だ。  俺は今、空にいる。  かつては当たり前だった上空からの景色や頬を撫でる風が、震えるほどに懐かしい。  半年前、青葉が賊に襲われ、右羽根の根元から切り裂かれる前は、呼吸をするように空を飛べたのだから。  小枝のように小さく見える杉の木、糸のような小川、手に触れるほど近くにある雲。  眼前に大無間山がそびえ立ち、覆う木々の隙間から岩肌とそこを流れる滝、そしてこれは天狗の視力があってこそだが、川岸の水神を祀る小さな祠さえ見てとれる。  地上からは決して望めない光景に、青葉の目に涙がにじむ。  懐かしさと、そして、自分が失ったものの大きさを痛感して。  じきに、豆粒ほどにしか見えなかった御座山の中複、高室坊に建つ宿堂や本堂――高室が僧だった頃の念持仏を祀っている――が、どんどん大きくなってゆく。  せっかく空を飛べたのに、もう終わりなんだ。  青葉が寂しく思った瞬間、本堂前の地上まで三間ほどの高さを残した場所で、阿嘉が青葉の襟から手を離した。 「――っ!」  とっさに青葉が羽根を羽ばたかせる。  左羽根が力強く羽ばたき、ふわりと体が宙に浮く。しかし、片羽根でいつまでも全身を浮かせることはできない。  青葉は右肩を下にして、地面に墜落した。 「っ!」  体に走る衝撃に、青葉の息が止まった。続いて、右肩に痛みが走る。  体を丸め痛みに耐える青葉を、本堂前で相撲をとっていた烏天狗たちが取り囲む。 「ややっ! 片羽根が落ちたぞ」 「天狗のくせに着地に失敗するとは、なんたる無様な」 「落ちた、落ちた。羽折れが落ちた!」 「高室坊の恥さらし!!」  烏天狗たちが、口々に青葉を囃し立てる。が、助けようと青葉に手をさし伸べる烏天狗はいない。  半年前まで、烏天狗たちは青葉のことを青葉様と呼び、一緒に相撲をとったり、天狗囃子や天狗倒しに興じた仲間であったのに。  それもこれも、青葉が御座山の主、大天狗の高室の不興を買ったからであった。  烏天狗は、風になびく葦のようなものだ。大風に逆らうようなことはしない。むしろ、大天狗の感情に染まり、意向を慮り、先読みして過激なまでの行動にでる。  そこに悪意も悪気もない。むしろ、あるのは恐れや怯えだ。  弱者が強者におもねるのは、弱者が生き残るための術なのだから。  青葉は右肩を左手で押さえながら、深く呼吸をくり返した。  天狗の身体は人より丈夫にできている。治癒能力も高い。人間ならば骨折するような衝撃も、せいぜい打撲傷か悪くても脱臼するくらいだ。  霊山に漂う気を患部に集めれば、打撲くらいはすぐに治る。  けれども、右羽根を使えない青葉は、霊気をうまく扱えない。  なぜならば、天狗の羽根は通力の源であったから。 「う……っ。くっ」  霊気が思うように集まらず、青葉が痛みに苦悶の声をあげた。 「……何をしているんだ!」  風鈴の音のような、涼やかな声がしたかと思うと、青葉を囃したてる烏天狗たちが一陣の風に吹き飛ばされる。  そうして現れた天狗の由迦(ゆか)が、青葉に駆け寄った。 「いったい、どうしたというんだ……。あぁ、肩が痛むんだね」  由迦が霊気を青葉の右肩に集めると、痛みがみるみるうちに消えてゆく。  青葉が安堵の息を吐くと同時に、地面に転がった烏天狗たちが騒ぎ出す。 「由迦様、酷いです!」 「我らが何をしたというのですか!!」 「黙るんだ。怪我をした青葉を助けもせずに……おまえたちは何をしていた!」  由迦が烏天狗らを一喝すると、蜘蛛の子を散らすように烏天狗たちが逃げてゆく。 「まったくしようのない奴らだ。……青葉、もう大丈夫だね。立てるかい?」  由迦が青葉の手を取り立ちあがらせた。 「ありがとう、由迦様」  由迦は、御座山では大天狗の次に通力の強い天狗であった。  長く白い髪を背中でひとつに結っている。背は青葉より少し高く、柳の木のようにしなやかな肢体の持ち主だ。  肌は白く、濡れたような瞳は黒。切れ長の目が艶っぽく、御座山以外は知らない青葉であるが、こんな綺麗な天狗はどこにもいないと思うほど、顔立ちは整っている。  元々は大無間山の天狗であったが、高室に惚れて山移りをし、それ以来ずっと高室の念弟である。  そして、高室の不興を買った青葉に対して、以前と変わらず接するのは、源爺を除けば、由迦だけであった。 「……まったく、あいつらにも困ったものだね」  由迦がため息まじりにつぶやくと、それまで事態を静観していた阿嘉が口を開いた。 「由迦、青葉への治癒は禁じられているはずだ」 「僕が聞いたのは、右羽根の治癒に対してだけだ。それ以外については、高室様は何もおっしゃっていない」 「では、高室様に上申し、今後一切、青葉への治癒を禁ずるよう命じてもらおう」 「阿嘉、おまえは自分が何をいってるのかわかっているのか? なぜ、わざわざそんなむごいことをする」  女性的な容貌をしていても、由迦の芯は強い。阿嘉に対しても一歩も引かず、逆に睨みつけさえした。  まずい。このままだと、俺のせいで阿嘉様と由迦様が喧嘩になっちゃう。 「早く、高室様のもとへ参りましょう」  青葉が健気に言い募ると、由迦が小さくうなずいた。 「青葉は僕が連れてゆく。さあ、青葉、行こう」  阿嘉から庇うように、由迦が青葉の背に手を回す。  以前と変わらぬ由迦の優しさに、青葉の体がほっと緩んだ。  ふたりが、本堂前から高室の住む建物――御座山では庫裏と呼ぶ――に向かった。  高室は御座山では別格の存在であるがゆえに、独居する特権を得ているのだ。  ……高室様の庫裏に呼ばれるのは、いつぶりだろうか?  由迦の体温を感じながら、青葉が心の中でつぶやいた。  青葉は、この御座山で生まれた天狗だ。赤子として生まれたのではなく、三歳くらいのこどもの姿で顕現した。  顕現したのは、高室の庫裏で、高室による結界で守られていたはずの水珠という名の宝珠を、なぜか手にして遊んでいたという。  まるで水珠から生まれたようだと、高室はことさら青葉に目をかけ、かわいがった。 「人であった頃の私には、妻子がいなかったが……きっと、こどもがいたら、このように愛しいと思ったのだろうね」  高室は、よく小さな青葉を膝にのせ、頬ずりしながらそういったものだった。  そんな時には、必ず由迦が隣にいて、ふたりをほほえまし気に見守っていた。  青葉は生まれつき通力も強く、その上、ろくに術も使えない時から水珠に呼ばれて雨を降らすなどの行為をしていた。  いずれ高室の後を継いで、この御座山の大天狗になるものだと、青葉も周囲もそう思っていたのだ。  半年前の、あの日までは。

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