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第4話
三和土と和室を隔てる襖の向こうから、賑やかな声がした。
「真円(しんえん)殿が来ているんだ。高室様も、久しぶりに機嫌がいい」
真円というのは、御座山に出入りしている行者だ。人間ではあるが、各地の山岳霊場で修行をし、大天狗に比肩する法力を得ているといわれている。
一見したところ、四十代のはじめほどの年恰好で、山歩きで鍛えたと思しき頑強さと俊敏さを兼ね備えた肉体の持ち主だ。
性格は豪放磊落を絵に描いたように爽快で、酒に目がないのが欠点であった。
青葉が初めて真円を見た時から五十年は経つが、ほとんど外見は変わらない、天狗以上に、謎な人物である。
「高室様、青葉を連れて参りました」
由迦が声をかけると、すぐに真円の声で「入れ、入れ」と返事があった。
襖を開けると、高室と真円は酒盛りの最中であった。漆塗りの酒杯を手にしたふたりの間に揃いの盆とチロリが、そして一斗樽が高室の脇に置かれている。
青葉だけが部屋に入り、由迦は「失礼します」といって去っていった。
「おお、青葉! 一年ぶりだな。元気にしていたか?」
変わらぬ真円の笑顔に、青葉は泣き笑いの表情になる。
そうして、真円に手招きされて、青葉はその隣に座った。
「随分と痩せたなぁ。高室殿、ちゃんと青葉に飯を食わせておるのか?」
真円の言葉に、高室が眉を寄せた。
久しぶりに青葉は間近で高室を見た。
優しかった表情は消え失せて、苛立ちと焦燥が眉間に皺となり、刻まれている。
高室は、背は、青葉より頭半分ほど高いくらいか。見た目は三十代はじめくらい。上品で男らしく整った顔立ちをしており、肩につく長さの髪で前髪は後ろに流している。
元々、高室は京の下級貴族の子弟であった。比叡山の僧侶となり、学識、行法、ともに優秀で、みるみるうちに頭角を顕した。
とはいえ、比叡山は上級貴族の子弟ばかりが高位に就いた時代である。次第に高室は山岳修行に打ち込むようになり、三十を過ぎた頃には、京を捨て各地の修行場を巡り、天狗さえも退治するほどの法力をつけた。
その頃、この御座山の麓にある御鏡池に住む蛇と出会った。その年は猛暑の上、雨が少なく、神格を持つ蛇でさえ、雨を降らすことはできなかった。
その蛇は、天女もかくやという美女の姿で、高室に雨を降らせてくれるよう頼んだ。
『わが身はどうなってもかまいませぬ。どうか、この地に雨を降らせてください』
草庵の床板に額をつけ、懇願する蛇の姿に、高室は憐れみと恋情を覚え、蛇を水珠に変え、その水珠を使って雨乞いすることにより、この地に雨を降らせた。
そうして、高室は、蛇にかわりこの地を守るため、天狗となった。
ただ一度の邂逅は、それゆえに高室の中で永遠で、至高であった。
由迦を念者として抱きはしても、高室が一番愛するのはあの蛇の神霊であり、その魂を宿した水珠であった。
その水珠――愛する者――を失った悲しみが怒りとなり、高室を変えた。
早く、水珠が返ってきて、高室様が元の優しかった高室様に戻りますように。
それは、御座山のみなの願いであったが、巴陵は一向に水珠を返す気配がなく、高室の悲しみは続いていた。
「……飯ならば、真円殿、これからは、そなたがたんと食わせてやればよい」
これからは真円様が俺に食わすって……どういうことだ!?
青葉がすがるような眼をして高室と真円を交互に見る。
「つまりな、青葉よ。儂が、日本酒一樽を引き換えにしておまえを譲りうけたのだ」
「譲る……? いったい、どういうことですか、高室様!」
「言葉通りの意味だ。真円殿が天狗の眷属を必要としているので、おまえを渡すことにした。今後は、真円殿を主とし、誠心誠意、仕えるがいい」
高室様は、俺が御座山からいなくなってもいいくらい、俺のことを嫌いになっていたんだ……。
大きく見開いた青葉の目から、ポロポロと涙が溢れる。
高室は青葉から目を背けたまま杯に口をつけた。
「しかし、真円殿もかわっておられる。今のこやつなど、烏天狗ほどにも使えないだろうに。なぜ、青葉が欲しいのだ?」
「いや、それは……」
高室の問いに、真円が目を泳がせ、恥ずかしそうに口を開いた。
「青葉は、人の子にも珍しき美形であるから。ま、その、なんだ。……察してほしい」
「あぁ、夜伽の相手がほしかったのか。確かに、今の青葉には、それくらいしか使い道はなかろうな」
真円の答えに、高室が深くうなずいた。
「というわけで、儂はこれで失礼する。……では、青葉行くぞ」
力強い真円の腕に支えられ、青葉がよろめきながら立ちあがる。
「さて、青葉、儂の中に入ることはできるか?」
中に入るというのは、眷属として真円に憑くことだ。人に幽霊が憑いた状態と同じことである。
真っ赤な目をした青葉がこっくりとうなずき、光の玉に姿を変えて中に入った。
真円が笈を背負い、庫裏を出て、御座山を後にする。
由迦様に、お別れのご挨拶もできなかった……。
真円の影に潜む青葉のまぶたが熱くなる。
昼間から飲酒したにもかかわらず、真円の足どりは確かで、まるで空中を飛んでいるかの如く、すいすいと道なき道を歩いていった。
すぐに御座山の結界を越え、山を覆う高室の波動が消えて、青葉は悲しみと寂しさに息を吐いた。
真円様がいるとはいえ、こんな羽根の俺でも、やっていけるんだろうか。
いつも感じていた高室の気配が消え、青葉は強い不安に襲われる。
「……さて、青葉。到着したぞ。儂の中から出るがいい」
真円の声がして、青葉は光の玉の姿で外に出た。空中でぶるりと玉が震え、天狗姿の青葉が顕現する。
いずれ、どこぞの山小屋か行者の修行のための洞窟に着いたのだろうと思っていた青葉は、濃厚に感じる天狗の気配に目を丸くした。
ここは、どう考えても天狗の住処だ……。
驚く青葉が主の真円を見やる。真円は、満面の笑顔で日本酒の一升瓶に頬ずりしており、その正面には、あの巴陵が胡坐をかいて座っていた。
あぁ、よかった。巴陵様は生きていたんだ。それに元気そうだ。
……って、なに考えてるんだよ! 巴陵は水珠を盗んだ極悪人なんだ。安心なんか、しちゃいけないんだ。
以前と同じ着流し姿の巴陵が、青葉に笑顔を向けた。
「よう、小僧。久しぶりだな」
「な、なんで、おまえがここにいるんだ!」
「なんでって……。そりゃ、ここが大無間山の巴陵坊だからだ。小僧、あの時は世話になった。おまえのおかげで、俺は命を長らえた。右腕も、ほら、この通りだ」
人懐っこい笑顔を浮かべ、巴陵が右腕を動かしてみせる。
巴陵は、高室様の水珠を盗んだのに、どうして、俺にこんなふうに笑いかけるんだ!?
「真円様、これはいったい、どういうことですか?」
隣に座る真円に、青葉が勢いこんで尋ねる。
「いやなに、儂がおまえを眷属にしたいといったのは、嘘なのだ」
「嘘!?」
「おまえが御座山で酷い目に遭っていると伝え聞いた巴陵が、それならおまえを大無間山に迎えたいと言い出してな。しかし、まともに申し出ても叶わぬだろうと、この日本酒と引き換えに、儂が一芝居うっておまえを連れ出した……ということよ」
謝礼の一升瓶をしまらない顔で撫でながら、真円が答えた。
「日本酒一升……」
真円が青葉を眷属にするため、高室への見返りとしたのは、日本酒一樽であった。
そして、巴陵が青葉と引き換えに真円に渡すのは、日本酒一升なのだ。
「俺……どんだけ値下がりしてるんだよ。普通、こういうのって、どんどん価値があがってゆくものでしょう!」
青葉が絶叫した。
「いやいや、青葉。大無間山には酒泉と呼ばれる不思議な洞窟があってな。そこに三日ほど日本酒を置いておくと、酒泉の気を吸い、どんな酒でも天上の美酒もかくやという旨い酒になるのよ」
「だが、うちの山の奴らは三日も待てなくて、酒とあらばすぐに飲んじまうから、幻の酒と呼ばれている。今回は、俺が青葉の身柄と引き換えにするから手を出すなと命じた上に、結界も張ったんだ。とはいえ、一升瓶を十本置いていたのに、無事だったのは、たった一本でなぁ。つまり、最初は一斗分用意していた。だから安心しろ」
わなわなと震える青葉に、真円と巴陵がかわるがわる事情を説明する。
「いったい、何を安心しろというんですか!」
間抜けすぎる経緯に、青葉がその場に突っ伏して泣きだす。
「これ、泣くな、青葉。そうだ、儂がもらった謝礼の酒を好きなだけ……いや、一合……いや、一口飲ませてやるから、機嫌を直せ」
「そんな酒、いりません! 全部、真円様が飲んでください」
「そうかそうか。青葉、おまえはいい子だなぁ」
青葉は、これほどまでに自分の要望に忠実な――赤裸々にダメ人間っぷりを晒す――真円を見るのは、初めてだった。
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