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第37話

 唯一の救いは、水を買っていたところか。効くのに少し時間がかかるが抑制剤を飲めば……  ピルケースをあけ……しかしこんなときに限って中はカラだった。しまった、前に切らしたときに、面倒くさがってそのままにしていたのがいけなかった。  他のオメガに比べて軽い方とはいえ、何もしなくても平気、というほどではない。何もしなかったら確実に心も身体もぐずぐずになるし、アルファに害を及ぼす。何をされたって文句が言えない、発情中のオメガ…… 「はっ……」  膝に置いた鞄に落ちる、自嘲のため息。  偉そうに痴漢に食ってかかったのが恥ずかしい。こんなことじゃ、あのときの自分の言葉なんて、何の意味も持たなくなる。  発情の波が来るのがいつもより早い。  尻の穴に力を入れて堪える。電車がまだホームに着くだいぶ前から立ち上がって、ドアのところまで行く。ズボンの外にまで愛液が染みてしまうのが怖かった。  駅に降りて……だからといって発情がおさまるわけでもない。タクシーを使うか……いや、駄目だ、迷惑をかけてしまう。  降りたのは、最寄り駅から二駅手前の駅だった。歩いたら一時間ほど。歩けない距離ではないが、無理しない方がいいか……いや、だからといって他に選択肢も……  悩んでいる間にも、愛液の量が増していっているのが分かる。  賑わっているのは駅の周辺だけで、ロータリーを抜ければ一気に人通りはまばらになる。人目につかないのはいいが、逆に『何が』あっても気づかれることはない。身体は最高にダルくて、右足と左足をちゃんと交互に動かせているのかも分からなかったが、塀に手をつきながら歩みを進める。街灯と街灯の間隔が徐々に長くなっているように感じたけれど、たぶん、単に自分の歩みが遅くなっていただけなんだろう。街灯のある場所に着くと、全身の力が押し出されてしまうくらいのため息が出て、また暗闇の中に一歩踏み出すのが億劫になってしまう。意を決して歩みを再開したのに、まるで引き止めようとするみたいに、太ももを伝う液体が膝裏、足首まで絡みつく。 「くそっ……!」  ダンッ、と塀に手をついたとき、ぐしゃり、と嫌な感触がした。見ると、塀に貼ってあったポスターが無残に破れていた。もともと剥がれかかっていたのかもしれないが、朱莉がダメ押ししてしまったのはあきらかだった。おそるおそる手を離すと、見覚えのある『ぎ』『み』『や』の文字が下敷きになっていた。ぐしゃぐしゃによれても、さぎみやはるこの唇は笑みをかたどったまま崩れていない。時間差で、とうとう耐えきれずポスターは破れながら地面に落ちた。  彼を知る以前なら、何でこんなところにケバケバしいおばさんのポスターなんか貼っているんだ、と、逆ギレて、知らんぷりをしていたかもしれない。でもどうしても、彼の姿がちらついてしまう。何度も何度も水平を確認しながら、それでも上手くいかずやり直していた彼の姿が。  中途半端に塀に残った部分もすべて剥がして、折り畳む。鞄に入れるには大きすぎるサイズだったので、仕方なく手に持つ。これだけのことで、一気にエネルギーを使ってしまった。塀を背もたれにしゃがみこみ、スマホを取り出す。こうなったら最後の手段に頼るしかないだろうか。  もしあのときの痴漢がここにいたら、きっと悦んで尻をまさぐらせて、何なら自分からホテルに誘っていた。 「最悪だな……」  スマホの画面が暗くなったほんの一瞬、画面に映り込んだ自分の顔はひどく醜かった。

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