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第38話
右手にスマホ、左手にポスター。ああこれ、剥がしちゃったこと、言っておかないといけないな……そんなことを考えていたせいか、鷺宮の連絡番号を押してしまっていたらしい。プルル、とコール音が鳴って初めて気づき、慌てて発信を切る。『応答なし』の表示。
勢いに任せて、キープしていたアルファにメッセージを送った。返信はすぐに返ってきた。迎えに来てほしいと場所を告げる。駅まで戻るのもつらかったし、ひとの多い場所に行くのも怖かったので位置情報を送ると、『マジウケる』というようなニュアンスで『何でそんなとこにいんの?』と返ってきた。『しょうがないじゃん急にキちゃったんだから。早く助けに来てー』と深刻さを感じさせない絵文字をつけて送る。送り終えたのを見計らったかのように、じくじくとナカが疼き始めた。お前はやっぱりそんな人間か、と戒められたようでもあった。
三角座りをして頭を膝に埋めていると、不意にスマホが震えた。見ると、鷺宮からだった。さっきの着信を気にして律儀に折り返ししてきたのか。
無視してもよかった。むしろ無視するべきだった。そうしたら単なる誤発信、としてそれきりになるはずだった。なのにひとりきりで待つしかない、という不安感が、『応答』ボタンを押させた。
「……何」
そんなことしか言えない自分が自分で本当に最低だと思った。
『え……っと、さっき着信があったので何かと思って……』
「あんたって、着信があったらワン切りでも折り返すの」
『仕事柄つい、電話には敏感に反応してしまいますね』
「仕事柄……」
何だろう。もやもやする。
聞きたくない言葉を聞いてしまった、と思った。でもそもそも自分が、言ってほしいことを言ってもらえるような言葉がけをしていないことは自覚していた。……言ってほしいこと? いや別に、こいつに言ってほしいことなんて……
「正解だよ。仕事の話をしようと思ってた」
『仕事の話、ですか』
「ポスターさ、一枚、駄目にしちゃって。M駅から五分ほど北に行ったとこの、住宅街に差しかかったあたり……分かる?」
『あ、はい、場所は全部地図に書いてますので』
「それさ、もたれかかった瞬間、ビリッてやっちゃって。ごめん」
『気になさならないでください。……でも、そのためにわざわざ連絡を?』
「いや、明日には事務所に行ってポスター貰って、それで貼り直せばいいや、って思ってて。電話するつもりはなかったんだけど……」
『川澄さん、今もしかして、その場所にいますか?』
「え……」
『外におられるのかなと思ったんですけど。それにもしかして、具合……悪かったりしませんか?』
どくんどくんと、鼓動がうるさかった。どうして気づくんだろう。どうしてこいつが。
『別に……何で……?』
ああうんそうなんだよねー急に発情期来ちゃったから超しんどいー、と、アルファのカモにはするりと言えたことが、何故だか言えない。
『いえ、それこそ私からの電話にすぐに出るとか。川澄さんらしくないな、と』
「暇だったから」
『暇……』
納得はしていないがどう言い返していいか分からない……という思いが乗っかった鸚鵡返しだった。
「ちょっと酔ってるかも」
『飲まれたんですか』
「うんそう、会社の飲み会」
『送別会のシーズンですもんね』
「今までこういうの参加したことなかったからちょっと浮かれた。四月からは社員にしてもらったから、慣れないとなーって思って」
『えっ、社員に登用されたんですか? おめでとうございます』
「別にめでたくねー……っつーか、一定年数働いてたら誰だってなれんだよ」
何だろう。
一体何でこんなこと、こいつと話しているんだろう。この会話には一体何の意味があるんだろう。さっきまでもっと深刻な問題で揺れていたはずなのに。
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