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第48話

 馬鹿なことを、と思いながらもつい時間を確認し…… 「川澄くん、今日ちょっと残れる?」 「えっ」  しかしそんな時に限って急遽残業を頼まれてしまった。普段なら内心では「えっ」と思っても、「はい」としか言わないけれど、今日ばかりは抑えることができなかった。 「どうしてもですか……」  どうしても、ならしかたない。けれど「えっ」と言ったとき、自分はそうとう嫌な顔をしていたんだろう。無理なら別にいいよ、と、あっさり引かれてしまった。引かれてしまうとそれはそれで罪悪感が刺激され、あらためて申出に行ったが、もう既に別のひとに決まってしまったあとだった。  帰る前にロッカーで、社員が立ち話しているのを聞いてしまった。 「今日残らないって?」 「ええ、露骨に嫌そうな顔されちゃいましたんで」 「まぁ今はまだ派遣だからいいけど。四月以降もそんな感じだったら困るなぁ」 「ですよねぇ、自覚持ってもらわないと」  社員の自覚、とは何だ。  どんなときでも文句を言わずに残業することか。残業の上限時間を越えたら、勤務管理を操作して残業していないように見せかけることか。  エレベーターが下に向かう速度以上に、沈み込んでいくのが分かる。一階についてもまだ下があるように、ずん、と沈む。  午前中はあれだけそわそわ、気にしていたのに、間に合わなくてもいいや、と思いながらO駅に向かっている。駅に着いて演説の声を聞いたとき、間に合った、ではなく、間に合ってしまった、と思った。  柱の陰から様子を窺う。渋々、といった感じでチラシを受け取った通行人に対しても、さぎみやはるこは大袈裟に「ありがとうございまーす」と腰を折っている。その横で彼は『さぎみやはるこ』と書かれた幟を持って立っていた。  すらりとした立ち姿。  控えめな会釈。  自分があそこで同じことをしろと言われたら、絶対できない。でもそんな彼を見続けることは、一時間でも二時間でもできそうだった。彼につられるように、自分の背筋も伸びる。ありがとうございます、か、よろしくお願いします、か……彼も何か言っているようだったが、拡声器を通したさぎみやはるこの声にかき消されて聞こえてこない。もう少し近くに行けば……と柱の陰から一歩出たとき、彼がタッとこちらに向かって駆けてきた。まさか、と思ったが、彼が向かった先はチラシを配っていたスタッフだった。何だ、と息を吐き、知らないうちに心拍数が上がっていたことに気づいた。  肩を支えるようにしながら、壁際に移動しようとしている。具合でも悪くなったんだろうか。あまりじっと見ていると気づかれてしまうと思い、スマホを見ているフリをしつつチラ見すると、スタッフはどうやら、前に見たオメガのようだった。  オメガ……  嫌な予感がした。  大きく肩を上下させている彼が、太ももを擦り合わせるような動きをしたとき、予感は確信に変わった。 「もしかしてアレ、きちゃってる?」 「えっ……って、川澄さん……」  どうして朱莉がここにいるのか……余計なことは考えさせないよう、「早く、薬は?」と遮るように言う。遮るように……彼とオメガとの間に割って入っていた。 「急、だったから持ってなくて……」  何となくそうだろうと思ったから、鞄から薬を取り出して渡してやる。しかしオメガはなかなか受け取ろうとしない。

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