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第49話
「大丈夫、これ、市販のやつだから。弱いかもしんないけど、一旦はこれでしのげるだろ」
「はあ……」
受け取りはしたものの渋々、といった感じで、飲む気がないのが分かった。鷺宮は、「すみません川澄さん、ちょっとだけ彼をお願いできますか」と水を取りに行ってしまった。彼がいなくなった直後、チッと舌打ちが聞こえた。
「余計なことすんなよな」
ひとは。
こんなに一瞬のうちに表情を変えることができるのか。
発情、で覆い隠されていた彼の本性が、火照った顔の下から滲み出ている。
「せっかくあいつに発情、鎮めてもらおうと思ったのに」
こういう……
こういうオメガがいるから、オメガの立場はいつまで経っても変わらないんだ。
久しぶりにはっきりムカつく奴を前にして、逆に清々しさすら感じる。
でも、自分だってそうじゃないか。自分のことを棚に上げて、こいつを非難する資格なんてない。自分だって迂闊にも(こいつと違ってわざと、ではないが)薬を忘れ、勝手気ままにアルファを呼びつけ、快楽を貪ろうとした。自分もこいつも、第三者から見たら同じ『クソオメガ』だ。それでもこいつよりはマシだと思ってしまう。何よりこんな奴に鷺宮をよごされたくない。鷺宮だっていつかはオメガと『そういうこと』になるだろう。でも少なくともこいつは駄目だ。
ぎゅっと拳を握りしめる。
「あいつに……? はっ、笑える」
「は? 何が」
「無駄な努力にならねえよう教えといてやるけど、あんたがどれだけ誘惑したって、きっとあいつは何も反応しねーよ。アルファとしての性質が弱いんだってさ。まあそれでもやりたいって言うならやれば? ……なあ!」
丁度戻ってきた鷺宮に声を掛ける。
「せっかく水持ってきてもらって悪いんだけど、こいつ、薬いらねーんだって」
「え……? もうよくなったんですか?」
馬鹿、そんな早く発情が治まるかよ。まったくこいつはどんだけ箱入りなんだ。
何の疑いも持っていない彼を見るとますます、こんな奴を近づけてはならないと思う。
「あんたに抱いてもらうつもりだったんだってさ」
「えっ」「ちょっと!」と、ふたりの声が重なったが、無視して立ち去る。
手榴弾を投げ込むみたいだった。爆発に巻き込まれないよう、できるだけ早く、遠くに逃げる。
何やってんだろう。
むなしさがじわじわとこみ上げる。あのふたりが上手くいこうが駄目になろうが、自分にはまったく関係ないじゃないか。時間が経って冷静になると、あれが果たして本当に鷺宮のためになる行為だったかどうかも分からない。こんなことをする自分より、あのオメガの方がもしかしたらひととしてまだマシ、かもしれない。
家に帰り、スーツのままベッドに倒れ込んだ。いいことがない。壊滅的に。何も。部屋の明かりをつける気もしない。つけてしまえば、しみったれた現実に引き戻される。寝返りを打ったとき、ネクタイが腕をかすめて、それで仕事のことを思い出した。こんなことだったら残業していた方がよかった。そうしたらあんな陰口も言われずにすんで、あんな現場に遭遇せずにすんで、あんな醜態をさらさずにすんだ。
「くそあいつのせいだっ……」
呟きながら、自分のせいであることは分かっていた。誰に強要されたわけでもない。選んだのは全部自分だ。
「あいつと関わるとほんっと、ロクなことがない……!」
ぼすん、と枕を殴りながら、こんなのは子どものダダこねと同じことを自覚していた。〇〇くんが悪い、と、一方的にわめき散らす子どもに憑依されたかのように、ぼす、ぼす、と枕に拳を沈める。今もしここに彼がいたとしても、同じような強さで殴りつけてしまいそうだった。すると彼はきっとおろおろして、でも決して朱莉を責めるようなことは言わないだろう。
そういうところも、アルファらしくない、のだ、彼は。
彼がそんなだから、分別のない子どもに成り下がってしまう。
「何なんだ……」
何なんだ何なんだもう。頭を抱えて丸まる。発情期のときだってこんなに情緒不安定になったことはなかった。
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