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第51話

 返したいもの、と彼が渡してきたのは、オメガに渡した抑制剤の残りだった。減っているところを見ると、一応ちゃんと飲んだんだろう。 「別にいいのに、こんなの」 「そうですね、川澄さんならそう言われるかな、とも思ったんですけど」 「思ったんですけど?」  今度は彼の方が言葉につまり、頭をかいている。 「まあいいや。せっかくだから……お茶でも飲んでく?」 「えっ」  返事を待たずにくるりと背を向けると、やはり彼は拒まなかった。しかしドアが閉まってからあまりに静かだったので不安になって振り向くと、丁寧に靴を揃えている丸まった背中があった。 「おかげさまで、いただいた薬のおかげで彼の具合はよくなりました」 「そう、よかったな」 「でも彼は、あれからすぐに辞めてしまいました。学生バイトだったんですけど」 「辞め……えっ? ついこの間雇ったばっかじゃねーの」  流石イマドキ~……  会社の中では朱莉だって『イマドキの若者』に分類される立場だが、それでも年々、下の子の考えは分からない、と思うことが増えた。学生ならなおさらだ。 「川澄さんの仰ったように、どうやら私は、『狙われて』いたようです」  とんでもないことをさらりと笑顔で言った。  コーヒーを入れたコップ(コーヒーカップなんて洒落たものはウチにない)に彼が口をつける。ため息で水面が揺れるのが見えた。 「どうやっても私が彼に反応することはない、と分かった途端、彼は急に口数が少なくなりました。実はこういうことで失望されるのは初めてではないんです。でもまさか次に彼が口をひらいたとき『辞める』と言うとは思いませんでした。あっさりしたものでした」 「こっちから言う前に辞めてもらってよかったんじゃねーの。下心だけの奴なんてどうせロクな仕事しねえだろ」 「難しいですね。一体どうやったら志のある方を……いえ、志、なんて高望みしません、ただ普通に目の前の仕事を全うしてくれるひとが来てくれるんでしょうね。でもまあ、しようがないんですよね、自分たちがやっていることがそもそも利害とか欲にまみれているのに。自分もそれで動かされているのに。他人に清廉潔白を望むのは身勝手というものですよね」 「深く考えんなよ。運が悪かっただけだ」 「有り難うございます」  彼の言う、有り難うございます、は、さらさらと美しく書かれる文字のようだと思う。流れるように、よどみなく。照れも下心もなく、受け手に何の負担も感じさせない、柔らかな水のように有り難う、と言えるひとを、今まで知らなかった。 「そう言ってもらいたいがために、川澄さんに会いに来てしまったような気がします。初めてお会いしたときからずっと、川澄さんには助けられっぱなしですね」 「初めて? いやいや、どっちかって言うと俺の方があんたに助けられてるだろ」 「いえ、街頭でチラシを配っているとき、地面にばらまいてしまったのを一緒に拾ってくれたのが川澄さんでした」 「そんなこと覚えてたんだ。ていうか、あれはむしろ悪いのは俺の方だろ。うざいな、って思って突き飛ばしちゃったから」 「うざい……」 「ごめん、嘘つけなかった。だって本当にうざかったから。政治とか興味なかったし」  興味なかった。過去形だ。  彼につられてコップに口をつけながら、ぼんやり思う。 「馬鹿みたい、って、川澄さん、仰ったでしょう」 「言ったかな」 「チラシを拾うのを手伝ってくれた、以上に、何だかあのひとことが染みたんです。ああ、本当だなぁって。本当はずっと燻らせていたことを、代弁してくれたみたいで。分かっていたんです、自己満足ってことは。でも言われて逆に腹が決まりました。馬鹿みたいだけど……馬鹿なことだと分かっているけれど、でも自分はその馬鹿みたいなことを全うしなければならないんだ、って」 「馬鹿って言われて喜ぶとか、変態だな」 「そうですね、変態です」  彼はコップを両手で挟むように持っている。コップの丸みに添っている彼の長い指。中指がぴくりと動いたとき、まるで自分の肌を撫でられたかのように、ぞくりとした。 「そんな変態を川澄さんはいつも、絶妙なタイミングで救ってくれるんです」 「救った……つもりはないけど、ただ何ていうか、あんた見ちゃうと、ほっとけないんだよ。だったら見なきゃいいんだけど。でも見ちゃうんだよ」 「今日もスタッフの子と挨拶回りをしながら、今もし隣にいるのが川澄さんだったらな、なんて考えてしまいました」  すりすり、と、彼の中指がコップの上で忙しなく動く。敏感な部分をさわられているように、じくじくと身体の奥が疼く。やめろ。念を送ってみるが通じるわけもない。視界に入れなければいい。でも引き寄せられてしまう。身体にたまった熱を吐き出すようにため息をつく。するとそれを、朱莉が苛立っていると勘違いしたのか、 「すみません、川澄さんのご好意にすっかり甘えてしまいました」  と立ち上がりかけたので、 「そうじゃないから」  腕を押さえる。押さえたときに彼の手がコップに当たって、中身がこぼれた。それは机の上に留まって、カーペットも、どちらの服もよごさずにすんだ。すんでしまった。こういうときは彼は冷静で、朱莉が動くより早く、近くにあったティッシュをサッと抜き取った。白いローテーブルの上に広がった、コーヒーの黒。自分がぶちまけたものを、彼が拭いている。精液をぶちまけたとしても、同じように拭いてくれるんだろうか。彼のあとに続いて朱莉もティッシュを引き抜いては見たものの、何もすることができずに手の中で丸めるだけになってしまう。今吐き出したら精子も、こんな風に黒い色をしているんじゃないか。  ゴミ箱……ときょろきょろする彼の手から、ティッシュを受け取る。  しかしゴミ箱に入れることができず、それもまたぎゅう、と握り潰した。てのひらがじんわりと濡れていく。 「川澄さん?」 「俺も思った。あんたの隣にいるのが、もし俺だったら、って」  目が合った。  安っぽい蛍光灯の明かりが彼の瞳に映り込んでいる。

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