52 / 150
第52話
「それで一回そのポジションを奪ったら、もう他の誰にも譲らない。下心ばっかのオメガみたいに投げ出したりしないのに、って。だから……」
ティッシュを握りしめたのと同じ強さで、今度は反対の手で彼の手首をつかむ。つかみそこねて、袖だけ引っ張るような形になった。ティッシュはぐしゃぐしゃにすることができたけど、こっちは本当にそっ、と、つまんでいるような感じになった。恥ずかしいさわり方。セックス中、恥ずかしい格好、と煽られることがあるけれど、股をひろげたり尻を高く上げたり、あんなのは全然恥ずかしくない。今この瞬間、ロクに力を込められない指先の方が、数倍数百倍数万倍恥ずかしい。
「もう逃がしたくないんだけど」
入口を塞ぐように位置取る。そんなことをしなくても彼は逃げたりしないだろうし、もし彼が本気で逃げたいと思うなら、いつだって道をあける準備はあった。
「はい」
「はい?」
「はい」
何なんだ。一体何の「はい」なんだ。想像していたのと違う長さの、重さの言葉で、拍子抜けする。スマッシュが来ると思ったらボレーだった、みたいな。しばらく無意味に「はい」のラリーを繰り返し、朱莉の方が耐えきれなくなってラケットを放り投げた。
「何なんだよ!」
「はい」
「決死の……俺の決死の告白をそんな簡単な言葉で受け止めんなよ!」
「えっと、じゃあ……」
「俺だったらこうする……っつー、見本だからなこれは!」
彼の腕をつかんで引き寄せ、抱きしめ、胸に顔をうずめた。
もっと彼のにおいがするかと思った。鼓動が聞こえるかと思った。でも何も感じない。一秒二秒経って、自分が息を止めていたことに気づいた。吐き出し、吸ったタイミングで、彼の手が背中にふれたのを感じた。
「ひとり暮らしのつがいがいないオメガの部屋にのこのこ上がるとか、あんた無防備すぎんだよ」
「川澄さん、発情期じゃないですよね」
「あんたのことを好きな俺がいる部屋にのこのこ上がるとか」
好き。
何。
何なんだ。
ズボンのポケットにあいていた穴から十円玉落っことしました、みたいな感じでうっかり、こぼしてはいけない言葉だったのに。
「私も好きです」
落としたものが転がってどこかへ行ってしまう前に、拾い上げられた。
互いにひとつずつ、慎重に積み重ねていったものをワッ、と崩すように押し倒していた。今までになかった距離。キスしたときでも、肌にふれたときでも、性器を挿入したときでもない。この瞬間に、今まで引いていた境界線を越えた、と、はっきり思った。
ぎこちないキス。
重ねていけばいくほど慣れてくるはずなのに、逆にどうしていいか分からなくなってくる。反則だな、と思いながら薄目をあけて様子を窺うと、彼はぴったり目を閉じていた。
何を考えているんだろう。
参拝で、隣のひとが自分より長く手を合わせていて、慌てて合わせ直すときみたいだった。
こんなに何も考えずにセックスになだれ込んだのはいつぶりだろう。次、何をどうするかまったく段取りがつかめず、ただ間を持たせるためだけ、みたいなキスになってしまう。
何も考えず……違う、逆だ。逆に今まで、これだけ『ちゃんと考えて』セックスしてこなかった。誰とやったって同じ。アルファの精液だったら何だっていい。心より先に身体があった。服と一緒に心も脱ぎ捨て、ベッドの下でぐしゃぐしゃ。成長して現実が分かってくるように、セックスにおける『現実』もこんなものだと思っていた。
昔は違った。昔。遠い遠い昔は。運命というものを軽率に信じていたし、自分は選ばれると思っていたし、つがいになるということはとても尊い行為だと思っていたし、本当に信頼して愛して愛されるアルファとしかそういう行為はできないと思っていたし、クソみたいなアルファの精液で発情なんて鎮められやしないと思っていた。そんな昔の自分に、スッと戻ったような感覚がしている。セックスはやっぱり尊いものだ。心を蔑ろにしたらどこかでひずむ。信じていれば夢は叶う。愛すれば、愛される。……
ずっと体重をかけっぱなしじゃ悪いと身じろいだとき、太ももに硬い感触がした。彼の恥ずかしそうな表情に、自分も一緒に恥ずかしくなりたいと思って……
「よかった」
「何がですか」
「あんた、インポってわけじゃないんだな」
「イン……まぁ、それはそれなりに」
ともだちにシェアしよう!