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第56話
選挙当日は雨だった。
こんな雨の朝早くに選挙に行くなんて真面目な市民は自分くらいなもんだろうと思っていたから、受付に行列ができているのに驚いた。
列が捌けるまで……と、グラウンドの方に向かってみる。小学校時代、鷺宮はここを走り回っていたのか。
誰もいないグラウンド。ぺたぺたぺた、と、ぬかるんだところに足跡をつけていく。校内も見てみたかったが、不審者扱いされても困るので諦める。会場までの渡り廊下に、靴箱が並んでいる。ひらがなで書かれた名前。こんな風に『さぎみやとおる』も並んでいたのかと想像する。
小学校時代はまだよかった。アルファとかオメガとか、何も意識せずにすんだ。中学に上がると、三分の一は同じ小学校からの知り合いだったはずなのに、ほとんどが知らないひと、みたいになった。不運にも学校で発情期を迎えてしまい、それきり学校に来なくなった子もいた。
いつもより丁寧に傘についた雫を払い、きちんと閉じて傘立てに入れる。
選挙に行くのは、成人して初めての選挙のとき、記念で行っとくか、なノリで行ったとき以来だ。紙を二枚渡されたので一体何かと思ったら、市長と市議会議員、ふたつの選挙が同日に行われているらしい。市長って誰だよ、まったく知らんかった。内心慌てながらも、記載台に貼られている名前から何となく語呂のよさそうなひとりを無理くり選ぶ。台に置かれていた鉛筆はどれも、使うのが躊躇われるほどきれいに尖っていた。
出口で投票済証を渡される。
別にいらないんだけど、と、ポケットにねじこみかけたが、ふと思いつき、写真に撮ってみる。『投票してきたー!』とメッセージを作り、しかし今送るのは適切ではない、と、作ったメッセージを破棄する。
選挙は実は始まる前から決まっているんです、と、鷺宮は言っていた。さぎみやはるこはここまで既に三選。夫は不動産業を営んでいて、地盤は盤石。よほどのことがない限り固定票はひっくり返ることがないらしいが、それでも選挙結果が出るまではピリピリだろう。
一旦出したスマホをポケットに仕舞いかけたところで、何かメッセージが入ったなと思ったら、あろうことか鷺宮からだった。アプリをひらいて、一瞬、自分が作ったメッセージがまだ残っていたかと見間違う。『行ってきました』の下に、投票済証の写真。『これ持っていくと割引になるキャンペーンを商店街でやっているみたいです』
すかさず朱莉も、撮ったばかりの写真を送る。投票済証が二枚並んだ画面は、付き合ってる者同士のやりとりに見えない。
駅前に大型商業施設があるため、商店街にはほとんど行ったことがない。いい機会だから行ってみるか。昼飯でも食って。そういえば当選祝い……とかした方がいいのかな。いやまだ当選すると決まったわけじゃないけれど……
そのときふと、投票用紙にそういえば『さぎみやはるこ』じゃない、『さぎみやとおる』と書いてしまったことを思い出した。会場に入る前に、鷺宮の小学校時代に思いを巡らせていたせいだ。何てことだ。清き一票を無駄にしてしまった。
何の意味もない一票。
でも不思議と、無駄なことをした、という後悔はなかった。
雨に浮かれる子どものように、くるり、と、傘を一回回した。
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