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第58話

「バタバタしてんじゃねーの」 『忙しいのは母だけなんで。ひととおり挨拶回りも終わったので……今、お皿を洗ってるところです』 「お皿?」 『ケータリングの』 「やっぱバタバタしてんじゃん」  微かに水音が聞こえる。 「今ひとり?」 『はい』 「手伝ってくれるひといねーの?」 『自分から買って出たんです。ひとりになりたかったので』  結果は決まっている、と言いながらもやっぱり不安だったんだろう。重圧から解放されたように、めずらしく饒舌だった。 『というか、川澄さんの声を聞きたかったので』 「……うん」  ど直球に投げ込まれて、よろめいた。  俺も、と受け止めるのは気恥ずかしい。でも馬鹿言うなよ、と突っぱねるほど強くもない。意識した瞬間、じく、と、下半身が疼いた。  確かにずっと、彼の声が聞きたかった。言いたかったことを代弁された。声が聞きたかった、会いたかった、ふれたかった、ふれられたかった。  駄目だ。一度思ってしまったら止まらない。そうだ、しばらくずっと声を聞いていなかった、会っていなかった、ふれていなかった、ふれられていなかった。 『川澄さん? どうしたんですか、急に。黙って』 「いや何か、声聞きたい、とか言われたら喋りにくくなるじゃん」 『喋ってくださいよ』 「喋る。はい、喋った」 『そんな小学生みたいな』  どちらともなく笑みが弾ける。  馬鹿だ。どうしようもなくバカップルだ。社会人になってからまさかこんな『お付き合い』をすることになろうとは思ってもみなかった。スマホを耳に当てたまま、ごろんと寝返りを打つ。それに合わせて少し、愛液が垂れたような気がするが、たぶん、そんなに量は多くない。 「そういえば見てきた。あんたが通ってた小学校」 『どうでしたか……って、訊くのも何か変な感じですけど』 「んー、何か懐かしい感じがした」 『川澄さんの母校でもないのに』 「あるだろ、何か、小学校、ってだけで醸し出される懐かしい雰囲気」 『実際私が通っていた頃からは、かなり変わってしまいましたけどね。体育館は建て替えられましたし』 「会場になってた? マジかよ、何だよ。ここで鷺宮少年が汗を流していたのかぁとか思い巡らせていたのに。まぁ確かにきれいな建物だな、とは思ったわ」 『川澄少年はどんな小学校時代を送っていたんですか?』 「どんな……んー、まあ、絶頂期だったよな、人生の。足も速かったし勉強もできたし」  そこそこモテたし。  まぁそれは今でも。『モテる』の意味は変わってしまったけれど。 『もしその頃出会っていたら友だちにはなれなかったかもしれないですね。私は足も遅くて勉強もできませんでしたので。カースト的なところでいうと底辺でしたから』 「でも今ではハイクラスにいるからいいじゃん。言っただろさっき、絶頂期だ、って。そっから先は俺、落ちていく一方だったからさ」  オメガだと分かって落ちて。信頼していたひとに裏切られて落ちて。社会の厳しさを自分のできなさを価値のなさを思い知らされて落ちて。 「まあでも……」  愚痴だ。所詮。  それほど深刻なことじゃない。めずらしいことじゃない。これくらいの挫折。あらためて言葉にすると実際以上に重く感じられるけど。こんなの全然。大切なひとを心配させる価値もない。こんなことで本気で心配してほしくない。 「まあでも、落ちるところまで落ちたから、今は上がるしかないって感じなんだけど」  落ちるところまで落ちた、というのも盛りすぎかな、と反省しながら、再び寝返りを打つ。爆発するような感じじゃないけれど、じわ、じわ、と、敏感な箇所に熱を持ち始めている。その熱を逃すように、一旦スマホを遠ざけてからため息をつく。 『川澄さん』 「ん?」 『もしかして今、具合悪かったりしますか』  遠ざけたのに、スマホを。  何で分かってしまうんだろう。

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