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第60話
彼が来たとき丁度、薬が効き始めた頃合いだった。
ピンポイントに打ち込まれていた熱が、すうっと身体全体に希釈されて広がっていくみたいな感覚。なのに鼓動はいつまで経っても落ち着かなかった。
「何だか川澄さんが、他のアルファに抱かれてしまうような気がして」
「いやそれはないし、第一こんな時間だし……」
「分かっています。分かっているんですけど、でも何かいても経ってもいられなくて……」
「おでこ汗かいてる。走ってきた?」
ジャケットを脱がせる。そのままの流れでワイシャツも、その下も脱がせた。一日の疲れを溜め込んで、決していいにおいではない。でも何故か不快ではなかった。互いに互いの服を脱がせあう。着ているものは朱莉の方が少なかったのに、裸になるのは彼の方が早かった。
ぎゅうっ、と、甘えたい盛りの子どもみたいに抱きしめられた。真正面から、ちゃんと、抱きしめられた。そういえばセックスするときに、あらためてこうやって抱きしめられることもないなと思った。
「いいにおいがしますね。もしかしてこれがフェロモンなんでしょうか」
「いや、単にシャンプーのにおいじゃねえの」
「そうか……そうですね」
「大体あんた、フェロモンには反応しないんだろ。それでも反応……してるって、何か……嬉しい」
抱きしめられたときに、欲望をダイレクトに感じた。
つながりたい。早く。
欲しいのはアルファの精液、じゃなかった。
彼が、欲しかった。
「あっ……!」
先が入口にふれた、と思ったら、一気に突き入れられた。また何だかんだ理由をつけてナマで入れるのを躊躇うかと思ったから、その動きは意外だった。もしかしたらただ加減を分かっていなかっただけかもしれないけれど。
入ってくる。つながってる。ぴったりと。隙間なく。ふれあっている……
気持ちいい、と、そんなひとことで終わらせてはいけないような感覚だった。いや、この感覚こそ、本当に気持ちいい、と言うべきなのだ。今まで感じていた感覚は、気持ちいい、じゃなかった。
心の底から欲しい、と言えた。欲しい、欲しい、もっと激しく、奥まで欲しい。
恥ずかしい言葉を連呼しても、全然恥ずかしくない。羞恥心をなくしてしまったからじゃない。何が恥ずかしくて何が恥ずかしくなくて、それをただしく分かった上で、これは恥ずかしくない行為だと思えている。ずっと前から探していた答えをようやくもらえたような気がしている。
「気持ち……気持ち、いい……」
もっと、もっと、と、手繰り寄せても、手繰り寄せても、足りない。
身体を重ねてもキスをするのは好きなひととだけとか、名前を呼ばれたら感じるとか、そんなのはフィクションの中だけだと思っていた。でも今、彼とするキスは特別なものだと思っている。こんなキスを知ってしまったらもう、行きずりのアルファとセックスなんてできない。名前を呼んでもらったらそれだけで、自分が特別な存在になったように思える。それだけで嫌なこと全部、チャラにできる。死にたいと思ったようなことまで、全部、全部。
思いを伝えたい。でもふと、彼のことをどう呼べばいいのか分からなくなる。いつも、あんた、と蔑ろにしていたツケがこんなところで回ってきてしまった。
とおる。
と、思い浮かべた瞬間、もともと熱かった身体がさらに熱くなったのが分かった。恥ずかしい。シンプルに恥ずかしい。でもこれは、乗り越えるべき恥ずかしさだ。
「とおる」
まったく反応がなかったので、自分がちゃんと声に出したのか出してないのかも分からなくなってしまった。
「る……とおる」
彼の目が丸く見ひらかれた。
「何か、呼びたくなったから……」
動きがぴたりと止まる。
「や……だから……あるじゃんそういうの、分かれよ、こう、盛り上がっちゃうとさ……さらっと流せよ」
「吃驚してしまって。今自分のことを下の名前で呼び捨てにするのは、親くらいになってしまいましたから。何か不思議な感じというか」
「そこで親出してくんなよ、萎えるだろ」
選挙ポスターのどアップがよみがえってしまう。
「すみません。でも……いいですね、何か、特別になれたって気がします」
「とおる」
「はい」
「でも俺の今言ってるとおる、は、ひらがなのとおる、だから」
「はあ」
「分かる? この違い」
「はあ、ちょっと、難しいですね」
「分かれよ、何となく、分かるだろ、雰囲気」
「はい」
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