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第69話
「えっと……そのうち一緒に住めたらとは思ってますけど。でも今のマンションが東西線に近いんで便利なんです。職場にもそれ一本で三十分で行けますし。だから決めあぐねていて……」
「それなら私がその近くに行っても……」
「そんなの、仕事を辞めたらすぐ解決する話でしょう? いつ辞めるの?」
「それは……辞める、と言ってすぐ辞められるかどうか……」
「辞められるわよ。辞めさせてもらえなかったらブラックよ。もしそんなことされるようだったら言ってくれればいいから」
「ただ、今年社員にしてもらったばかりなので、急に辞める、というのも……」
「社員……社員って言ったってあなた、役職がついてるわけでもないんでしょ?」
「それはそうですけど……」
「オメガひとりが辞めたくらいで立ち行かなくなるなんてことないわよ。会社はそれくらいのこと想定しているでしょ。というより本音じゃ、つがいになってからもだらだらといられる方が有り難くないんじゃないかしら。オメガは通常の社員に比べて福利厚生手厚くしなきゃならないから。補助金もそのうち減額される動きだし。雇用を促進するはずの法律が逆に足を引っ張ってるって皮肉な話よね。あなたは一度正社員になったんだから、正社員になったって実績を残して、あとはサッと立ち去ればいいと思うの。それが結局、会社に貢献することになるんじゃないかしら」
「私はこれからも朱莉さんに働き続けてほしいと思っています」
「亨、あなたは黙ってて」
「何てことないようにおっしゃってますけど、朱莉さんはここまで頑張ってこられたんです。それをつがいになったくらいで、簡単に捨ててほしくない」
「そうは言ってもね、せっかくつがいになったのに、不安定な身体のオメガをわざわざ外で働かせてその上手当を受けまくるって、どれだけアルファに甲斐性がないんだって思われるじゃない」
「そうですか? ひとりで何でもできる……私は朱莉さんのまさにそういうところに惹かれたんです」
もう黙ってろ、と、そのときはさぎみやはること同じ気持ちだった。本意ではないがさぎみやはるこが望むのなら、いわゆるオメガ、を演じて、息子を立ててやるとこっちが覚悟を決めているのに、お前がそれでどうする。
「どちらかといえば私の方が朱莉さんに助けられっぱなしで。他の方だったらきっと匙を投げられていた。朱莉さんだったからこそ、つがっていただけんだと思います」
「享!」
ビール瓶を割ることができそうな金切り声だった。
「さっきから黙って聞いていれば、つがいになったくらいでとか、つがっていただけた、とか……今後一切、そういったことは口にしないで頂戴!」
「でも……」
「特に後援者の方々の前では絶対! アルファの威厳を揺るがすようなことは許しませんから。せっかくあなたが彼を助けた、っていういいエピソードがあるんだから、それを活かさないでどうするの。くれぐれも……ああいいわ、私が先に原稿書いておくから、あなたは間違えずそれを読むだけでいいわ」
「オメガに助けられたくらいで揺らぐアルファの威厳って何ですか」
反論はもちろん、肯定するようなことすら口に出しにくい雰囲気だったのに、享は怯まなかった。
「私は朱莉さんをつがいにしてやった、なんて、決して思えない。それがアルファの威厳だとも」
バン、と、机を叩いて立ち上がり、彼女は出て行ってしまった。
どうしてくれるんだこの空気。
享の表情を見て、母親に喧嘩を売っていたわけではないんだ、と気づいた。駆け引きも何もなく、本当に心の底から思ったことを言っていたんだと。
「俺もつがいにしてもらった、なんて思ってねーからさ、だから享も、俺以外につがいになってくれるひとはいなかった……とか、そこまで卑屈になる必要はないと思うんだよ。してやったとかしてもらったとかじゃなくてさ。俺たちはつがいになった、んだから」
「朱莉さん……」
「でもさ、お母さんの言うことも分かるよ。やっぱ世間はまだまだアルファ、とか、オメガ、とか、そういう役割を期待しがちじゃん。お母さんの立場を考えたらさ……」
「でも、朱莉さんは本当にそれでいいんですか」
「俺は別に……そもそもこれといってやりたいことがあったわけじゃないし……それに必要だろ、ある程度望まれる姿を演じるっていうか、社会に迎合するっていうか。理想論だけじゃどうにもならないことも……」
「ダブルスタンダード」
と、享はぽつりと呟いた。
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