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第70話

「分かってるんです。母の支持層はアルファが多い。でも選挙ではオメガの立場に立たないと市民の目は厳しい。そういう母の間近にいて、自分自身がどう考えているのかすら分からなくなっていきました。アルファのこともオメガのことも、同じように憎く思ったこともありました。でも朱莉さんに初めて出会ったとき、頬を叩かれたように、目が覚めたんです。本当に私は何て馬鹿なことをしているんだろう。ずっとこのままなのか、このままでいいのか、って……」  分かっていた。  彼のこういうところに自分はどうしようもなく惹かれたのだ。  会社の上司みたいに、満員のエレベーターの中でも平気で声を張り上げるような、平気でひとに向かって煙草の煙を吹きかけるような、ひとを粗末に扱うようなことは決してしない。言葉ひとつ、行動ひとつ、表情ひとつを繊細に考え、自分が不快な目に遭わされることより、ひとを不快にさせることの方を極端に恐れる。そんな彼の長所は、でも時々、鉄球のついた枷のようになる。自分ならとっくに放り出してしまうものを後生大事に抱え持っているのを見ると、そんなものとっとと捨てちまえと強引に奪い取ってしまいたくなる。 「情けない話ですけど私は朱莉さんに出会って初めて、自分がどう思っているのか、どうしたいのかがはっきりと分かるようになったんです。その理想を大切にしたいと」 「オメガも普通に働けて、痴漢にも遭わなくて、つがいになってもらったくせにとか嫌味も言われない、そんな理想?」  そんなの無理だ、と嘲笑ってやるつもりだった。清濁併せ呑めないお前はひよっ子だと。でも彼の真っ直ぐなまなざしに跳ね返される。 「俺は別に、哀れまれようが蔑まれようがどうでもいい。卑屈になってるとかじゃないよ。亨と一緒になってから、本当にどうでもよくなった。世間が、親が、何て言おうが、思おうが、一番大切なひとが自分のことを一番大切に思ってくれているなら、それでいい。世間……とかいう巨大なものに向かって戦うのはしんどい。亨とふたりだけの時間を大切にできれば、それで」  結構な愛の告白をしたつもりだったが、亨は無反応だった。取ってつけたような言葉に、流石に気づかれてしまったか。しらじらしいとは思ったけれど、でも、まったくの嘘というわけでもなかった。本当に欲しいものと言えば結局、亨と幸せに暮らすこと。ありきたりで、シンプルで、ちっぽけな、そんなこと。 「働き続けてるのも、亨が思ってるみたいな立派な志があるからじゃない。別にどうでもいいなって仕事でも、ノセられたらそれなりに気分がいいから、ノりたくなる。続けたい、というより、辞めどきを見失ってただけなんだ。お母さんの言うとおり、辞めようと思えばいつだって辞められる」  亨は唇を噛みしめている。そんな表情をしたのは初めてだ、ということに、ちゃんと気づけばよかった。 「俺が辞めて上手く回るんだったらそうした方がいい。それこそ痴漢に遭ってこい、って言うなら遭ってきてやるよ。さわられたって別に減るもんじゃないし。亨以外に感じることはもうないんだから、気が楽だ。感じちゃってどうしようとか罪悪感に苛まれることもないし。あ、でもそもそもフェロモンが出なくなっちゃったから、誘惑できな……」 「朱莉さんの口から、そんなこと聞きたくありませんでした」  さっきまでとは違う。  怒っている、と、はっきり分かる表情だった。  しかし次の瞬間、今にも泣き出しそうな顔に変わった。  適当に取り繕うのはお手のもの……の、はずだった。心にもないことを言うことも。それこそあのさぎみやはることだって、それなりにやれと言われたら自分はきっと、やる。けれど今までにないくらい、しどろもどろになった。  誠実な思いをぶつけられると、誠実に返さなければならないと思う。返せるだけの誠実さが自分にないことに気づき、言葉が喉の奥でつっかえる。

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