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第73話

 つがいになって、二度目の春を迎えた。  産休を取っていたオメガが復帰したのをきっかけに、子どもを作りたい希望があることを初めて上司に告げた。それまで真面目に働いてきたのが幸いしてか、思ったよりあっさりと認めてもらえた。以前より少しだけ人員が増えて、余裕が出てきたのも大きかったかもしれない。  しかしもう何も不安がなくなったにもかかわらず、コウノトリがやってくる気配はなかった。  不妊。  というワードがちらりと頭をよぎり、でもそのたび、健康診断で何の異常もない自分に一体何があるのだ、と、否定したい気持ちが上回る。病院に行って、はっきりと問題が分かってしまうことの方が怖かった。 「病気があるって分かったらどうしよう、って不安に思えているうちはまだ幸せですよ」  ちらりと不安を漏らすと、復帰したばかりのオメガは言った。 「原因が分かったら治療できるじゃないですか。でも不妊の原因は分かんないことがほとんどで。何でできないんだろう、何でできないんだろう、何で何で何で……って思っているうちに一年経って二年経って、リミットを迎えてしまう。そうならないうちに、やれることはやった方がいいですよ」  体外受精までは行かなかったものの不妊治療を経験した彼の言葉には重みがあった。それと動じに、それらの苦労を『過去』のものとして語れる彼に嫉妬した。子どもが熱を出したから、と、彼が早退したあと、「あーあ、私にもお迎えきてくださいー、って連絡来ないかなー」とぼやいている同僚の話題に、いやらしく乗っかったりもした。 「まったくこれだから若い子は。いくら権利だからって時短めいっぱい使うだなんて、『ご自由にお取りください』のアメニティを全部持ってっちゃうようなもんじゃない。お互いさまとか、思いやりの精神とかがなくなっちゃたわよね。あ、でも若い子、って言っても、朱莉ちゃんはそんなことないわよね。というかむしろ、朱莉ちゃんだったらどうぞどうぞ、って言ってあげられると思うの。同じことやってても。マタハラとか何とか言うけどさあ、やっぱりそれまでの行いじゃない?」  そんな風に言われるとやっぱり子どもはまだいいやと思うし、でもさぎみやはるこから連絡があるとやっぱり子どもを作らねばと思うし、でもできないと、そもそも『作る』って何だ、と哲学めいたことを考えたりもするし、でも亨に抱きしめられると、ただただ純粋に愛しいひとと結ばれた証が欲しい、と、シンプルに思い、でも次の瞬間、いや今さら何を虫のいいことを、と、自己嫌悪に駆られ、解けない問題を諦めて問題集を閉じるみたいに、パタン、と、思考を裏返しにしてしまう。  同じ命じゃないか。  亨との子も、かつて自分が堕ろした子も、同じ命。  発情期が、今までとは違う意味で、苦しくなった。  発情期が来るということは、子どもができなかった、ということだ。  性欲を発散するためではなく、子どもを宿すエネルギーをすべて身体に溜め込むみたいに、絶頂する瞬間、亨の腰に脚をぎゅっと絡めるのが癖になった。  あるとき何の気なしにテレビをつけたら、大家族のドキュメンタリーをやっていた。本当はすぐにでもチャンネルを変えたかったけれど、「これ面白いですよね」と言われたら変えられなかった。お母さんの誕生日を祝おうと、子どもたちがああでもないこうでもないと言い合っている。上のお兄ちゃんお姉ちゃんたちに邪魔者扱いされた下の子が、部屋の隅で何をしているのかと思えば、お手伝い券を作っている。クレヨンを手に、覚えたてのひらがな。額の汗を拭ったときに、頬についてしまったクレヨンの赤。その様子を少し離れたところから見ている父親と同じように、亨は目を細めて、言う。 「可愛いですね」 「ああ、そうだな」  さらりとした相槌、に見せかけて、本当は必死の思いで絞り出していたなんて、亨はきっと気づいていない。  その可愛い、は一体何だ。何でそんなことを言うんだ。ただテレビを見ての感想? そんなことをわざわざ口にするのか。そのあとに何か続けたかったんじゃないのか。自分たちの子どもだったらもっと可愛いだろう、とか。だから早く子どもが欲しい、とか……  ローテーブルの上に新聞が乱雑に置かれたままだったので、無駄にきれいに畳み直す。ふと、『抑制剤の功罪』という記事が目に留まったので、亨に気づかれないよう目を走らせる。不妊のオメガが服用していた抑制剤のほとんどが、効果の強いものだったという。『副作用についてちゃんと知らされていたなら飲まなかった』『副作用を知ってもなお、弱い薬じゃ効かないから飲み続ける』『どうして今まで国が規制をしてこなかったんだ』『規制されたら、死ねと言われているようなものだ』……いろんな立場の、でもすべて切実な声が載せられている。  挙げられていた薬の中に自分が飲んでいる薬がないことを確認してから、記事が中に隠れるように折り畳んで、テーブルの隅に置いた。

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