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第77話

 ……何で。  サインの浮き出た検査薬を見つめながら思った。妊娠に関して、何の気がかりもなく、心の底から、うわあ、やった、と、思える日は自分には訪れないのだろうか。  そんな、自分ができなかったリアクションを、全部享がしてくれたとき、このひとのつがいでよかったと、心底思った。お腹にいるのがこのひとの子どもでよかった。選ばれた。選ばれたんだ。この子は自分を選んで宿ってくれた。何でこんなタイミングで、と会社のひとに嫌がられようが、祝福されまいが、かまわない。このひとが喜んでくれるならそれでいい。普段は小声でぼそぼそと喋る彼が、めずらしく隣の部屋に聞こえるくらいまで声を張った、その喜びの声はきっとお腹の中にまで伝わっているだろう。 「よかった」と抱きしめられたとき、ああ、お腹の子ごと抱きしめられているんだな、と、亨の胸に顔を埋められながら思った。見るもの、聞くもの、食べるもの、感じるもの……これからは全部、お腹の子と共有することになるんだ。  妊娠が分かった翌日、早速本屋に行き、『あんしん妊娠・出産』やら『妊娠中のいたわりレシピ』やら『はじめてのママとパパへ』やら、ちょっと気が早いとは分かりつつも、『子どもの才能の伸ばし方』やらの本を買った。ネットで調べようと思ったら調べられるだろう。でも、気づいたら大きい紙袋でないと入りきらないくらい本を買ってしまっていたのは、単純に、浮かれていたのだ。育児本コーナーに行ってもいいのだと許可証を貰えたみたいで。  安定期になったら報告しよう……しかし安定期っていつからなんだ、と、調べる前から、つわりが来た。  外回りはキツかったが、一度外に出てしまえば、オフィスの中でひと目を気にしなくていい点はよかった。しょっちゅう酢昆布をしがんでいるのを見られたら、絶対怪しまれる。夏の暑さも気持ち悪さに拍車を掛けた。もっと妊娠するのにいい時期を考えればよかった、なんて贅沢なことを考えつつ、でも結局十月十日妊娠しているわけだから、いい時期、なんてものはないのかもしれない。

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