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第78話

 オフィスに戻る前にカフェで体調を整えてから戻ろうと思ったけれど、午後はどこもいっぱいだった。ひとが多いとそれだけで気分が悪くなる。暑いのはうんざりだけど、クーラーで冷えすぎてもいけない。  結局、オフィスの受付前のソファで一休みすることにした。誰か来たら、サッと立ち上がればいい。自販機で買ったレモンソーダ。ペットボトルの蓋をあけ、プシュッ、という音を聞いたときには清涼感を感じたが、ひとくち飲んだ瞬間、甘ったるさにさらに気持ち悪くなってしまう。甘くない炭酸にすればよかった。はあー……と、ため息を吐きながらうつむく。一度前屈みになってしまうと、そこから起き上がることが難しかった。 「大丈夫ですか?」  呼びかけられた、と思って顔を上げる。そこにいたのは育休から復帰したオメガだった。一階の郵便局に、郵便物を出しに来たところらしかった。 「あ……大丈夫、です。暑くて、ちょっと参っちゃって」  ペットボトルを首の後ろに当てる。もう飲む気はしないが、アイスノン代わりにはなるだろう。 「外回りは大変ですよね。ずっと中にいると寒いくらいなんで」 「夏さえなければこの仕事は最高なんですけどね」 「本当すごいですよね、川澄さんは。正社員になって、今までとまったく違う仕事なのに、すぐに成果も出して。俺は絶対無理だなぁ。そもそも働けるとすら思っていなかったから。その上営業だなんて。いつアルファにぶつかっちゃうかと思うと、とても……。そういえば今年に入ってまだ休み、取ってないですよね? ちゃんと取ってくださいよ。年に六回取得は義務ですからね」 「発情の程度がそんなに重い方じゃないから。だから上手いことやれてるんだと思います。俺にしてみたら、子育てしながら働く、ってことの方が未知の世界ですよ。俺も前から、本当にすごいなぁと思っていたんです。これからたぶん、教えていただたいことがいろいろ出てくるかと」 「川澄さん、もしかして……」  彼の視線がちらり、と、朱莉の下腹部に落ちる。彼になら言ってもいいか、と思った。 「まだ安定期に入ってないんで……」 「そうですか。じゃあなおのこと、身体には気をつけないといけないじゃないですか。仕事なんて適当でいいですよ」 「ええ、だから今、適当にサボってました。ムカムカがおさまるまで、と思って」 「昼食べました?」 「この仕事になってからそもそも昼を食べる習慣がなくなってしまって」 「ちょっとでも胃に何か入れている方がいいですよ。でもまあ、食べなきゃ食べなきゃって思いつめるのもストレスになってよくないらしいですけどね。駄目なときは本当、駄目ですもんね」  炊きたてのご飯をあんなにマズく感じるようになるとは思わなかったとか、せっかく食べられたのにそのあと歯ブラシを口に入れた瞬間にリバースしてしまったとか、『つわりあるある』でひとしきり盛り上がる。  分かる、と共感してもらえることが嬉しかった。亨は気遣ってはくれるけれど、このつらさは分からない。どうしようもないことだけど、それに対する苛立ちはほんの少しだけあった。  あれだけ、どこにも隙間ができないくらいくっついて、一緒になって、ひとつになったのに。急に、ここから先はお前ひとりですることだ、と、突き放されたようだった。もちろん、亨はそんなことは思ってもいない。朱莉以上に朱莉の身体のことを、それこそ妊娠が発覚したその日の晩ご飯から、「生ものは駄目、アルコールはもちろん駄目、えっ、昆布も駄目なの? 身体によさそうなのに……」と、おかずのひとつひとつをいちいち調べて、(鬱陶しいくらいに)気遣ってくれた。家事も育児も亨の中では、ふたりでやっている、という意識がある。これで分かってくれないとか気遣ってくれないとか文句を言うのは傲慢というものだ。だからこの理屈では拭えない孤独や焦燥感は、ホルモンか何かの影響でこの身体に感じさせられて、いるんだろう。マタニティブルー、というやつかもしれない。 「口をあけるとおえおえするって感じで。面倒くさいからずーっとマウスウオッシュ使ってたんですけど、そしたら妊娠中は歯肉炎になりやすいからちゃんとケアしなきゃ駄目って脅されて」 「へえー、そうなんですか」

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