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第111話
「行くなよ、お願いだから。行かないで、行かないで、行かないで……!」
異変に気づいたのか、父親が駆けてくる。血相を変えて。さっきまでのへらへらした様子とは違う。子どものことを本当に思っているんだということが分かる。そうだよな。こういうひとが親であるべきなんだよな。自分なんかが親をやる資格はないよな。分かってた。だから自分は授かれなかった。違う、選ばれなかった。突きつけられたんだ。こんな親は嫌だって、子どもの方から。
駄目だ。分かってる。こんなことしたって。分かりきっているのに、腕に込めた力を緩めることができない。子どもはよりいっそう激しく泣き出し始める。こんな小さな身体なのに、朱莉が全力を出したってかなわないほどのエネルギーが、一体どこに蓄えられているんだろう。
「朱莉さん」
聞き覚えのある声に、顔を上げる。亨だった。亨に肩をさわられただけで、嘘みたいに力が抜けていった。早速飛び出した子どもが、父親に抱きかかえられている。
「亨……」
「どうしたんですか。一体何があったんですか」
亨がじっと、朱莉の言葉を待っている。けれど説明なんてできっこないし、そもそもどう言っていいのかも分からない。父親も父親で、口を挟んでいいものか躊躇っているのが分かる。
「すみません」
亨が彼に向かって、頭を下げる。きれいに腰を折り曲げて。
亨は、すごい、本当に。
たったそれだけで一気に空気を和らげてしまった。嘘みたいに、子どももぴたりと泣きやんでいる。
亨が来てくれなかったら今頃どうなっていただろう。
「私の連れ合いがご迷惑をおかけしたみたいで、申し訳ありません。お子さんにお怪我はなかったですか?」
「それは……大丈夫です。すみません、こっちこそ……。つい、目を離してしまった隙に、この子が……って、あ、あなたってもしかして……」
しまった。亨のことがバレてしまった。
つくづく、自分は、馬鹿だ。自分が何かやらかせば、亨にも迷惑がかかる。そんなことに今さら気づくなんて。
お願いです、言いふらさないでください。自分のことはどんな風に悪く言われてもかまわない。でも、亨だけは。亨だけは、駄目なんです。亨はそんな風に言われちゃいけないひとなんです……
意を決して顔を上げたとき、向こうから、見知ったひとがやって来るのが見えた。両手に買い物袋を提げている。会社で、朱莉のことを気にかけてくれたオメガ。彼がどうしてここに……
「何で電話出ねーんだよ、つーか前に貸したポイントカードまだ返してもらってないよな。おかげでポイントつけ損ねたんだけど」
げしっ、と膝蹴りを食らわせたあと、朱莉の様子に気づいたらしい彼は、相方を引き寄せ何か耳打ちしている。
彼でよかった。彼のおかげで、おおごとにされることなく終わることができた。
ベビーカーに乗せられ、帰っていく彼らの背中を見送る。
自分ひとりじゃとても動け出せそうにもなかったのに、行きましょうか、と、享に言われただけで、スッと一歩を踏み出すことができた。
「すみません、ひとりにさせてしまって」
首を一度、横に振った。
「お知り合いだったんですね」
今度は縦に一度。
「他人を見るとやっばりどうしてもやりきれなくなることはありますよね。しかたないですよ」
横にも縦にも振れなかった。
「違う」
人通りの少ない裏道に、享は車を停めていた。なかなか乗らない朱莉に気づいて、運転席の方へ回り込もうとしていた享が足を止め、再び歩道の方へやって来る。
「違うんだよ。羨ましいとか……そういうんじゃない。そういうのを思う権利すらないんだ俺には。だって俺は……俺は今まで、いらない、って、捨ててきたんだから」
桜の花びらがふるふると震えながら落ちていくように、言葉が落ちる。桜の花は、まだ咲いてもいないのに。
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