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第116話

 朝七時。  ひとが集まっている駅前には既に現職の大物議員がいたため、人影まばらな商業ビルの前で初めて挨拶をすることにした。 『さぎみやとおる』と書かれた幟を亨が運ぼうとしたから、朱莉は立て看板を、と思ったら、一瞬早くそれも亨に手にされてしまう。拡声器を肩に掛け、右手に幟、左手に立て看板を持って、亨はさっさと横断歩道を渡り、広場の方に向かって行く。三つ折りにしたチラシを無駄に仰々しく両手で持って、そのあとに続いた。 「おはようございます」  拡声器を地面に置くのとほぼ同時に、通りすがったおばあさんに向かって亨は頭を下げた。それが第一声だった。「おはようございます」「いってらっしゃいませ」  電車が来るタイミングだったのか、駅の方からどっとひとがやって来た。そのひとたちに挨拶をすることに気を取られ、拡声器を入れるのをすっかり忘れている。ひとが途切れたタイミングを見計らって、朱莉がスイッチを入れに行く。  多くのひとの目にふれないといけないのに、ひとが少なくなるとほっとしている自分がいる。新品の緑のウインドブレーカーは、ちょっと動くだけでシャカシャカ鳴った。 「朝早くからお騒がせしております」「ご通行中の皆さま、おはようございます」「新明党市連・バース改革推進チームの鷺宮亨と申します」  俯き加減に足早に通り過ぎていくひとがほとんどだったが、名前を言ったとたん、ちらほらと視線を感じた。しかし目が合った、と、チラシを渡しに行っても、受け取ってもらえることはなかった。

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