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第118話
立候補を決めてから毎日、朝と夜の同じ時間帯、同じ場所で挨拶をするようになった。違う場所でより多くのひとに会った方が効果的なのではと思ったが、一回目だけでは印象に残らないし、ましてや投票までは結びつかない。それより確実に覚えてもらうひとを増やして、「何か頑張ってるな」と思ってもらうことが大切らしい。
「まあそれよりも大事なのは名簿なんですけどね」と、一時間ぶっ通しで挨拶し続けたあと、拡声器をひょい、と担ぎながら亨は言った。「顔の見えない不特定多数から何万も票を取る必要はなくて、顔の見える数千人から支持されれば当選できる。いわゆる『地盤』ってやつですね。地方議会はそういうものなんですよ。今回は補選なので、他の議員の後援会の方にもお手伝いいただけるので、有り難いことです」
その『後援会の方』への挨拶回りで、亨は連日、深夜帰りになった。
「でも何で、亨が候補になれたんだ」と、聞いたことがある。「やりたーい、って言って、やれるもんでもないだろ」
「名前が縁起がよかったそうです。選挙に、とおる」
「はぁ」
「って言うのは冗談ですけど」
「だろうな」
「でも、党の幹部の方たちにご挨拶するとき、そういう風に言うとウケがいいんですよ。選挙をするためにうまれてきたような名前です、って」
「やだねえ、あっという間に政治家じみてきちゃって」
仕事帰りに差し入れをしようと事務所を覗いたら、まさに『そういう風に言うとウケる』お偉いさんたちに、亨が囲まれていた。見つからない間に退散したかったのに、「あ、朱莉さん」と手招きされてしまう。「ご紹介させてください。私のパートナーの、川澄朱莉さんです」
恰幅のいい、海千山千ないかにも大物……の視線が、頭のてっぺんから足の先まで舐めるように往復する。何なら首のうしろまで透かし見られているような気がして、震えが走った。
「何だ鷺宮君、君ちゃんと、つがいがいたの」
「アルファであることが嫌だ、なんて言ってたから、てっきりそういう方面もご無沙汰だと思っていたのに。じゃあ子どももそろそろ?」
「いえ」
大物たちが一瞬動きを止める中、亨は朱莉に目配せして、微笑んだ。
「そういう予定はありません」
「今のところそうでもいずれは考えないといけないだろ。しかし出生前診断はやりづらいな。晴子さんは運が悪くて気の毒だったが」
「俺、子どもがうめない身体なんで」
余計なことを言ったら亨に迷惑がかかるかもしれない、と一瞬巡ったが、それよりも、言いにくいことを亨の口から言わせてはいけないという思いの方が勝った。
「死産になってしまって、出血が止まらなくて、それで……」
「朱莉さんの命が無事で本当によかったと思っています」
時と場所によっては感動的に聞こえたかもしれなかったが、今は場の空気をしらけさせるだけだった。
「まあ今はそういうつがいの形もあるんだろうな」
と、大物の中でも一番の大物がまとめてその場は落ち着いたが「つがいについて話すときは慎重になった方がいい」と、彼はあとで享に耳打ちしていた。
党の中でも、必ずしも享を推すひとばかりではないことが徐々に分かってきた。
母親のイメージを払拭して、若者や無党派層を取り込むには享は適任だったかもしれないが、今までの支持基盤のアルファからは否定的な声が聞かれていた。そもそも二世に対していいイメージを持たないひとも一定数いる。
「自分が担がれた神輿だってことは、重々承知しています」
客人を送り出し、ふたりきりになったところで享は言った。
「すみません、あまり朱莉さんには見せたくない光景だったのですが」
「別に。あんなことでいちいち傷つく繊細さももうとっくに俺にとっては『過去のもの』だから」
「本当に主義主張を訴えたいなら無所属で出るべきなんでしょうね。地盤なんて引き継がず。でも朱莉さんが仰ったように、やっぱり出るからには当選しないといけないですよね。そのためなら何だってやらないといけないと思ったんです」
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