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第49話 電子&紙単行本発売記念その1 『真昼の熱』

 隣室の扉が開く音を聞いて、イルハリムは弾かれたように椅子から立ち上がった。  思わず窓を見れば、陽光はまだ高い位置から降り注いでいる。――まさか、そんなはずはない。今の時間は会議中のはずだ。  皇帝が戻ってきた可能性を否定しようとしたが、耳に馴染んだ足音を聞き間違うはずもなかった。長衣の裾を蹴って闊歩する皇帝の姿が目に浮かぶ。  大急ぎでイルハリムは周囲を見回した。  何食わぬ顔をして今すぐ皇帝の居室に戻るか。あるいは長椅子で寝たふりをするか。  しかし考えをまとめるよりも速く、足音は一直線にこちらへと向かってきた。衣擦れの音とともに、隣室に通じる扉が開かれる。  威厳ある礼装長衣を纏った皇帝が、憤怒の表情で現れた。 「お前は……! ここでいったい何をしている⁉」  地を這うような低い声。  怒りを隠そうともしないその声音に、イルハリムは小姓頭の机の前で凍り付いた。 「あ……の……」  言おうと思っていた言い訳が、一瞬で頭の中から霧散した。全身に嫌な汗が噴き出して、めまいと息切れがする。  書類を隠さなければ――そう思った時には、大きな影が目の前に立ち塞がっていた。金の双眸が机の上を流し見て、眉間に深い皺を刻み込む。 「誰が仕事をしていいと言った! お前は余の命で療養中のはずであろうが……!」  声音は低く抑えたままの、ずしりと重い雷が落ちた。  秋から冬にかけて、帝都には冷たく乾燥した風が吹き渡る。  毎年この時期には体調を崩す者が出るのだが、今年は一気に寒くなったこともあって感冒が流行したようだ。特に商人と接することの多い下級官吏の間で発熱者が相次いだ。  後宮で真っ先に倒れたのは、デメルを始めとする数人の宦官だ。管理側の主力が倒れてしまったため、イルハリムは小姓頭としての日々の務めに加えて、後宮の細々とした実務まで担うことになった。  側女たちを個室に移動させたり医官の手配をしたりと、慌ただしい毎日を送るうちに、イルハリムにも病魔が憑りついてしまったらしい。妙に気怠いと思ううちに頭痛と喉の痛みが出現し、その日の夜にはかなり高めの熱が出てしまった。  こんな状態で皇帝の側に侍るなど、無論あってはならないことだ。  すぐに医官長に報告し、後宮の宦官長の部屋か、もしくは小姓頭の部屋で療養すると申し出たのだが、皇帝はその訴えを却下した。  曰く、『地上において最も療養に適しているのは余の居室である。世界最高の治療を受け、速やかに回復することが、余の臣下であり妃でもあるお前の責務である』とのこと。  熱でまともに頭が働かないイルハリムには反論のしようもなく、皇帝の操り人形となった医官長に五日間の絶対安静を言い渡され、勅命により皇帝の寝台で療養することが決まった。  今日がその五日目である。 「あの……もう十分に療養いたしましたので……昨日から熱は出ておりませんし……その……少しは動いて体を慣らしませんと、明日からの務めにも支障が……」 「ならば明日も休めばよい」  つっかえつっかえ考えていた言い訳を並べ立てたが、皇帝の返事はにべもない。  どうやって皇帝の怒りを解けばいいのかと、病み上がりのイルハリムは机に手を突いて思案した。  そもそも今日は大切な日だった。  輸出入の関税について遠国の使節と接見する予定があり、その後には宰相会議と歓待の宴が開かれる予定だったのだ。  幸い昨日の午後には熱も下がっていたので、イルハリムは当然小姓頭として全ての公務に同席するつもりでいた。  しかし朝の挨拶をした際にその旨を願い出ると、皇帝は朝食を終えるまで返事を先延ばしにした後、最終的にこう断じた。 『食欲も戻っておらぬのに、酒の席に出すわけにはいかぬ』  確かに浴びるように飲む皇帝や帝国貴族と違って、イルハリムはあまり酒に強くない。歓待の席では酒を酌み交わすことが外交術の一つとなるため、量を飲めないイルハリムにとっては少々辛い場ではある。  だがこれから交渉が始まる他国の使節に、小姓頭として顔を合わせておくことは重要だ。  接見だけでも出席させてくれ、それが駄目なら接見後に開かれる宰相会議だけでもと食い下がったが、結局皇帝が首を縦に振ることはなかった。寝台で療養を続けるように命じて、皇帝は一人でさっさと接見に向かってしまった。  後に残されたイルハリムは、しばらくはおとなしく寝台にいたのだ。  だが公務を休んで寝てばかりいるのが落ち着かなくなり、側付きの小姓を『眠るから一人にしてくれ』と追い出して、こっそり隣の部屋で仕事をすることにした。  今回の接見では、帝国で豊富に収穫される麦の輸出と、相手国から輸入する絹について交渉が始まるはずだった。  午前中に接見を行なって相手国の要望を確認し、それを受けて午後から宰相会議が開かれる。そこで出た決議を元に、夜の酒宴で互いの落としどころを探りながら、帝国にとって有利な条件で交渉を終えるのが最終目標だ。  交渉事には大抵本音と建前の二つがある。  接見で明らかにされるのは表向きの条件に過ぎない。宴の席を使って、国の内情やどこまで譲歩が可能かを探り出してくるのも、皇帝直属の側近である小姓頭の重要な役割の一つだった。  幸いイルハリムはいくつかの外国の言葉に通じている。おとなしそうに整った顔は相手の油断を誘いやすいこともあり、こういった非公式の会話は得意とするところだ。  それに多少踏み込んだ交渉をしても、流れが帝国にとって不利益なものとなれば、あくまでも私的な会話だったと押し切ることもできる。  この日のためにと、イルハリムは絹を扱う帝都の商人たちから様々な情報を聞き取っていた。それなのに、途中で風邪などひいてしまったせいでまとめる暇がなかった。  せめて宴の前に、商人から聞き出した絹の相場や産地の特徴だけでも書き出しておきたい。前々から用意してあったものだと言って渡せば、皇帝も疑わずに受け取ってくれるだろう。宰相会議は夕刻までかかるだろうし、急げば間に合うはずだ。  そう思って小姓頭の部屋に来たのだが――、それがまさか、この時間に皇帝が戻ってくるとは思いもしなかった。 「……畏れながら」  意を決してイルハリムは顔を上げた。  資料を用意することには失敗した。だがまだ手はある。 「私の体調は私自身がよく把握しております。昨日から熱は下がり、喉の痛みもなくなり、すっかり回復いたしました。どうか午後からの宰相会議に私も出席させてください」  酒の席が駄目だと言われるのなら、仕方がない。その前に行われる宰相会議には同席し、接見の内容や宰相たちの意見を把握しておきたい。  そう思っての直訴だったのだが――。 「宰相会議ならば、もう終わった」 「えっ」  苦虫を噛み潰したような顔で皇帝が言うので、思わずイルハリムは声を上げた。  知らぬ間に夕刻になっていたかと思ったが、太陽はまだ高い位置にある。正午をいくらか過ぎた頃だろう。重要な会議がそれほど早く終わるはずもないので、その言葉をすぐには信じられなかった。  もしや接見そのものが中止になったのだろうか。それとも今回は、事前に聞かされていた輸入に関する申し入れはなかったのだろうか。  疑問が顔に出ていたらしく、皇帝が言葉を続けた。 「使節との接見を終えた後、すぐさま会議を行なった。内容については後日職務に復帰したときに教えてやろう。それまで仕事のことは一切忘れて療養に努めよ」  皇帝の言葉によると、接見と会議はすでに終わっているとのことだ。  議論を重ねる必要もないほど、こちらに有利な内容だったのだろうか。それはそれで何か裏があるかもしれない。思惑を探る必要が出てくる。 「では、夜の宴に少しだけ同席させてください。けっして無理はいたしま――」  ――せん。と続くはずだった言葉が、口の中で途切れた。  息が触れ合うほど間近に迫った皇帝が、イルハリムの後ろにある執務机を叩いたからだ。 「……イルハリム……余は怒っているのだぞ」  地の底から響くような声は、無理矢理に抑えつけた激情の証だ。ヒュッとイルハリムの喉が鳴る。意図せず獅子の尾を踏んでしまったようだ。 「あっ」  無意識のうちに後ろに下がろうとした身体が机にぶつかり、跳ね返って皇帝の腕に捕らえられる。  両腕を掴んで獲物を捕捉した皇帝は、ギラギラと光る金の目でイルハリムの顔を覗き込んだ。 「……今朝の食事を半分も残したくせに、昼食まで手つかずで返したそうだな。それで回復したとは、どの口が言うのだ」  威圧感のある声に耳を犯されながら、イルハリムは失策を悟った。  てっきり夕刻まで戻らないと思っていたので、資料を作るために食事の時間を惜しんだのだ。何日も熱を出して寝込んでいたせいで、食欲が落ちて食べたいと思わなかったこともある。  皇帝は何かにつけイルハリムに甘いが、体調管理だけは別だ。特に、忙しいからと食事を疎かにすることは厳禁だった。  皇帝が金の目を細める。 「しかも、余の勅命に逆らって寝台を抜け出すとはな」  スゥ、とさらに血の気が引いていく音がした。  本気にしていなかったのだが、確かに皇帝の寝台で休むことは勅命だった。そんなことに勅命を用いるのはどうかと思うのだが、正式な書面に記載されて玉璽まで押されたものだ。それに背いたとなれば、即ち反逆罪である。 「へ……へい、か……」  風邪をひいて熱を出しただけだというのに、巡り巡って反逆罪に問われるとは。  完全に想定外だ。どこをとってもイルハリムにとって分が悪い事実しかない。 「も……」 「駄目だ。許さん」  申し訳ございませんと言うより先に、謝罪の声を遮られた。  両腕をがっしりと掴まれたまま、鼻先が触れ合うほど近くに皇帝の顔が迫る。  明るい金褐色の目が、欲望の色を宿して濃い黄金を帯びていた。 「反逆者め、覚悟せよ」 「ん……っ!」  腕を引き寄せられたと思った時には、皇帝に唇を奪われていた。肉厚の舌がすぐさま滑り込んできて、飢えたようにイルハリムの口内を探る。  両腕を掴まれている上、大きな執務机に退路を塞がれて逃げ場もない。  押されるまま机の上に倒れ込むと、足の間に皇帝の身体が割り込んできた。 「ぁ……ん、んっ……む」  上から覆い被さられて、貪るように口を吸われる。待ってください、と長衣の胸に手を突くと、高鳴る皇帝の胸の鼓動が掌に伝わってきた。  ――胸の奥が、ジンと熱くなる。  病は触れ合うことで人から人へ渡り歩くと言われている。  感冒だと診立てを受けてから、イルハリムは皇帝から距離を空けるようにしてきた。  空けると言っても、同じ部屋の同じ寝台で眠っているのだから限界はある。せめて直接は触れ合わないようにと、この五日間は口づけも抱擁も拒んできた。皇帝がいつになく苛立った様子を見せるのはそのせいだろう。  肌を合わせるようになってから数えれば二年になるが、正式に認められる立場となったのはわずか半年ほど前のことだ。それ以来、朝に夕にと口づけを交わさない日はなかったというのに。  飢えているのは皇帝だけではない。イルハリムも同じだ。  建国祭の後しばらくして、小姓頭の部屋からは寝台が撤去され、長椅子が置かれるようになった。  それまでも皇帝の部屋の寝台を使うことが多かったのだが、いよいよ他に眠る場所が無くなって、毎晩二人抱き合って眠るのが日常となった。  昼は視線が合うたびに唇を合わせ、夜は互いの体温を分け合って眠る日々。すっかりそれに慣れてしまったので、側にいるのに手も触れずに過ごすのは辛く寂しいことだった。  熱に浮かされながら皇帝の寝息に耳を澄ませて、何度懐に潜り込もうと考えたことか。  眠りに就けば激しく愛される夢ばかり見る。逞しい腕に抱きしめられ、肌の温もりと情熱を全身で受け止める喜び。乳香を嗅いだ気がして目を覚まし、それが全部夢だったと知った時の落胆は言葉にしようもない。 「へい、か……」  胸を押し返していたはずの手は、いつの間にか皇帝の首を絡めとっていた。両脚で皇帝の胴を挟み込み、無意識のうちに腰を擦りつけてしまっている。 「駄目、です……陛下…………まだ、病が……」  太い首にしがみついて唇を貪りながら、イルハリムは訴えた。  病魔が完全に立ち去るまでは接触を避けるべきだ。頭ではそうわかっている。言葉でも口づけを拒んだが、体はもっと欲しいと皇帝の唇を求めてしまう。 「……回復したと言ったのはお前ではないか。もはや病魔も消滅したはずだ」  濡れた唇の代わりに頬に口づけを落として、皇帝が言う。そのまま耳朶に口づけ、首筋に歯を立て、肉の薄い鎖骨のあたりはきつく吸って跡を残す。 「それとも偽りを述べて余を欺くつもりであったのか」 「ぁ……」  大きな手がイルハリムの顎を捕らえた。口を開けさせて、二本の指を口内に潜りこませる。 「偽りを言うは、この舌か」 「ア……アゥ……」  奥に縮まって逃げようとした舌を、骨太の長い指が追いかけた。  柔らかな表面を擦って奥まで突き入れたかと思うと、浅く戻って歯列をなぞる。舌先を指に挟んでいたぶったあとは、上顎を指で辿ってくすぐった。  イルハリムは目を伏せ、口内を奔放に探索する指に舌を絡める。音を立てて爪をしゃぶり、指の股に舌先を這わせて、口いっぱいに頬張った。  飲み込み損ねた唾液が唇の端から零れ落ちる。  それを見下ろす皇帝の目が、淡い金褐色から濃い黄金へと変わった。激情を押し殺した声が発せられる。 「お前の罪深き舌に、労役を命じてやる」 「ン……ンン、ッ……ウ、ンッ……」  執務で使う机の前に跪き、イルハリムは立ったままの皇帝の下腹に顔を埋めた。  口での奉仕を許されるのはひさしぶりだ。明るい日差しの下で目にした皇帝は、隆々としていかにも逞しい姿をしている。  イルハリムは顔を傾けて、大きく張った先端の括れから筋を浮かべた根元まで余すところなく舐めた。  この後どうなるのか、察しがつかないほど鈍くはない。  イルハリムは後ろ手に机の引き出しを探り、目立たぬ場所に隠しておいた香油の瓶を取り出した。皇帝から見えない角度で寝間着の前をはだけ、体の奥に塗り込める。 「……口の中が熱い。まだ熱が残っているのだろう……」  やるせない声で皇帝が呻いた。  交わりたいという欲望と、労わってやらねばという理性が皇帝の中で拮抗しているのを感じ取る。今更――ここまで来てお預けを喰らうのは堪らない。イルハリムは口を大きく開いて皇帝を咥えこんだ。 「イ、ル……!」  掠れた声で名を呼ばれ、そのあとに奥歯を噛み締める音が上から聞こえた。何日も触れ合わなかったうえに久々の口淫で、皇帝にとっても刺激が強かったようだ。  反り上がる怒張に伴侶が味わう快楽を感じながら、イルハリムは頭をゆっくり前後させた。  歯を立てないよう重々注意して、張りつめた先端を上顎に滑らせる。喉の奥を開いて深く呑み込めば、口の中で皇帝の牡がびくりと跳ねた。それを捕らえて動きを封じるように吸い付くと、頭上で短い呻きが上がった。  感じてもらえているのが嬉しくて、愛撫に勢いがつく。喉の行き止まりにある柔らかな粘膜を使って、追い立てるように先端を擦りつけた。深く咥えたまま頭を動かしてグリグリと揉み込む。舌の付け根を押されるので吐き気が生じたが、なんとか堪えてしゃぶりあげた。  息を継ぐと、濃厚な牡の香りが鼻から抜けていく。脚の間にじわりと熱いものが滲んだ。――もうこの奥に皇帝が欲しい。  そう考えた途端、イルハリムは肩を掴んで皇帝から引きはがされた。 「立って、机に身を伏せよ……!」  絞り出すような皇帝の声。  皇帝の心の中での戦いは、欲望が勝利を収めたようだ。  机に向かって立ち、尻を後ろに突き出すと、皇帝の手で寝間着の裾が捲られた。先に舐めて濡らした指が尻の狭間を確かめに来る。 「もう、準備はできております」  自分で腰の上まで裾を引き上げながら、イルハリムは答える。  万全とまでは言えないが口淫の合間に香油を塗り込め、中もいくらか解しておいた。準備に時間を取られるうちに、皇帝が理性を取り戻してしまう方が辛い。  イルハリムは片方の手を机に突き、残る手を後ろに回して尻肉を掴んだ。飢えて浅ましくなっている自覚はあったが、法にも認められた正式な夫婦なのだから、互いを求め合うのに何の問題があるだろう。自らの手で尻肉を広げて皇帝を誘う。 「早く……陛下の尊いもので、この中を満たしてください……」 「……この、けだものめ……!」  腹立たしそうに悪態をつきながら、皇帝が脚を左右に開かせて両手で腰を引き寄せた。先端を宛がって狙いを定め、ゆっくりと沈み込んでくる。 「あ……あ、っ……!」  両手で机にしがみついて、イルハリムは吐息とともに声を漏らした。  毎夜のように逞しい皇帝と交わる中で、力の抜き方は十分に心得ている。息を大きく吐き、我慢せずに声を上げた方が、最初の挿入の瞬間は楽だ。張り出した亀頭が埋まってしまえば、ひとまずは息をつける。 「あ、あ――ッ……ああ――……ッ……」  数日ぶりの交合に膝がガクガクと震えた。脚を左右に開いているせいで踏ん張りが利かない。机に突っ伏し、そこらにあるものを手当たり次第に握り締めて、括れの部分まで通り抜けるのを待つ。  声とともに息を吐き出し続けて、なんとか先端が埋まった。皇帝の凶器はその場所で留まらず、狭道を掻き分けてなおも突き進んでくる。無意識のうちに逃げを打った体は、後ろから掴んで引き戻された。叫びの形に口を開け、最後まで収まる瞬間をただひたすらに待つ。 「イル……イルハリム……」  時間をかけて慎重に、皇帝は猛る怒張を根元まで収めさせた。  日が空いた分イルハリムも苦しかったが、準備の整わない体に攻め入った皇帝にも苦痛があったに違いない。  息を乱して机の上に重なり合いながら、大きさに慣れるまで暫し待つ。 「お前の中が熱い……こんな体で宴に出ることを、余が許すとでも思ったか」  耳朶に唇を寄せて、皇帝が囁いた。  机の上に押し潰されて荒い息を吐きながら、熱を持っているのは皇帝の方だとイルハリムは思った。  腹の奥で隆々とした怒張が脈打っている。体がどんどん火照っていくのは、背中に覆い被さる皇帝が熱いからだ。寒い時期だというのに、熱く火照って息が苦しい。  耳を犯す低い声。仄かな汗の匂いと体温で温まった乳香が鼻腔に届く。  頭の芯から蕩かされそうだ。 「陛下……」  後ろを振り向いて口づけを強請ろうとした、その時――。  回廊に面した扉から、小さな咳払いが聞こえた。 「……ッ」  思わずイルハリムは手で自分の口を塞いだ。  うっかりしていたが、ここは皇帝の居室ではなく小姓頭の部屋だ。扉の外に衛兵がいるのは同じだが、距離が違う。  執務机と扉までの間はいくらもなく、物音はすべて筒抜けだ。先程までのやり取りも、口淫で上げた呻き声や、喉の奥までしゃぶりつく粘着質な水音も、今まさに皇帝を受け入れるために上げた叫びも――すべて衛兵に聞かれていた。 「動くぞ、イル……!」 「待っ……」  待ってほしいと乞う暇もなく、皇帝が動き始めた。初めは深く挿入したまま腹の底を小刻みに叩いて、徐々に大きさに馴染ませていく。 「ンン、ン、ン――ッ……ッ!」  トントンと叩かれるこの動きにイルハリムは弱い。皇帝の長大な怒張に貫かれ、皇帝にしか達しえない場所を責められるのが、気を失いそうなほど気持ちいい。  けれど、今は声を上げるわけにはいかない。机の上に爪を立て、散乱する書類をくしゃくしゃに握りしめるが、声も吐息も抑えきれない。 「ン、ン、ンッ、ン――ッ……ンンゥ――――ッ、ッ……」  体が馴染めば馴染むほど、皇帝の動きは大きくなっていく。  必死の思いで声を殺しているというのに、肌を叩く乾いた音がパンパンパンと後ろから響き始めた。扉の向こうにいる衛兵たちにも、この音は聞こえているはずだ。  ああ、いったい何と思われているだろう。寝台を抜け出して仕事などしにくるのではなかった。――鼻から声が漏れ始めるのを聞きながら、イルハリムは自分の迂闊さを後悔した。  病気療養中と言いながら皇帝を惑わして真昼の執務室で情事に耽っていたと、宮殿中で噂になっても誤魔化しようがない。恥ずかしくてあちらの扉は当分使いたくないが、かと言って皇帝の部屋からばかり出入りするのも外聞が悪い。  望んで望んで浅ましく誘ってまで肌を合わせたというのに、悔しいけれど一刻も早く終わってほしいと、机にしがみついて願う。  そんな願いを、皇帝が聞き入れてくれるはずもない。 「イル……まだ体が辛かったか……?」  声を上げないのを好くないせいかと誤解して、皇帝が動きを緩めた。自身の快楽を追求するのを止め、イルハリムが好む場所を狙い撃ちにして責め立てる。  違います、そうではありませんと首を振ってみせたが、通じなかったようだ。机との間に忍び込んできた指が、胸の飾りを抓み上げる。 「んひっ!……や……やらぁああぁ……!」  我慢しきれずに身悶えながら声を上げると、ンッ、ンッ、ゴホンッ、と先程より大きな咳払いが扉から聞こえた。  ようやく皇帝もその音に気付いたようだ。 「今は取り込み中だ! 後にせよ!」  チッと舌打ちして吠えたが、相手が悪かった。 「何を取り込んでおいででしょうか。もしや療養中の小姓頭どのに無体を働かれているのではないでしょうな?」  しわがれた声が響いた。  扉の向こうで咳払いしていたのは、衛兵ではなく大宰相だった。  それに気づいてしまい、あまりの事態にイルハリムは両手で顔を覆って泣きそうになる。  皇帝もさすがに相手が大宰相では分が悪いと思ったらしい。絶対的権力者として知られる皇帝だが、政の右腕であり幼い頃の守役でもあった大宰相にだけは、頭が上がらない一面がある。  ゴホン、と一つ咳払いして、皇帝は落ち着いた声を出した。 「無体は働いておらぬ。ただの夫婦の営みだ。そうだな、イルハリム?」  証言を求められたが、この状況で答えられるはずもない。口を開けば、ふあぁぁ……と上擦った喘ぎが漏れただけだ。 「……先程の議案、宰相たちの間で決議が出ております。どうぞ会議の間へお戻りを」  大宰相の声が一段と低くなった。  会議は終わったと聞かされていたが、どうやら宰相たちに討論させている間を抜けてきただけだったらしい。イルハリムが昼食も摂らずに寝台から消えたと報告を受けて、叱責するために駆けつけたのだろう。 「わかった、戻ればよいのだろう。暫し待て」 「あ……!」  不承不承言いながら、皇帝は動きを再開した。  確かにこんな中途半端な状態で止めることなどできはしないが、まさか最後まで続けるつもりなのだろうか。そう思う間にも、動きは激しさを増していく。 「すまぬな、イル……この埋め合わせ、夜まで待っておれ……ッ」 「ひっ……や、やぁんッ……だ、だめで……」  駄目だと拒む隙もなく、皇帝は高みを目指して駆け上がり始めた。数日ぶりの交情で、その勢いを留めることはもはや不可能だ。  それはイルハリムも同じだった。外には衛兵と大宰相がいる。扉は薄く、中の物音がすべて伝わるとわかっているのに、腹の奥から迫る絶頂の波に逆らいきれない。むしろ人に聞かれているという恥じらいが、官能を一層高めてしまっているのか。  閉じた瞼の裏に閃光が走る。理性が焼き切れて、後はもう本能に従って快楽を貪ることしか考えられない。皇帝の動きに合わせて尻を振る。 「あぁ、ッ……い、く……ッ……い、ちゃぅぅッ……――ッ……」  机にしがみつき、声を上げて絶頂へと昇りつめる。もう誰に聞かれようと知ったことではない。互いの熱を確かめ合う以上に重要なことなど、何もないように思えた。 「あぁ! ッ、あああぁ――――ッ……」  扉に向かって叫びを放つと同時に、穿たれた腹の奥にドッと熱いものが溢れ返った。 「……ですから、無体はおよしなさいと忠告いたしましたのに」  顔の下半分を布で覆って、少し離れた場所から説き聞かせるのは大宰相だ。  寝台に横たわる皇帝の側でイルハリムは顔を赤らめて俯いた。  ――あれから数日後、イルハリムの風邪はすっかり治ったが、それと入れ違うようにして今度は皇帝が発熱した。元の体力が違うので大したことはないと当人は言い張ったが、イルハリムと大宰相が医官長に相談し、無事に五日間の絶対安静が進言されている。 「今でこそ、このように頑健であられますが、お小さい頃の陛下はまことに病気がちで……」 「余計なことを言うな、大宰相」  ガラガラに掠れた声で皇帝が遮る。 「これしきの熱、何ほどのことでもない。余に憑りつくような怖れ知らずの病魔を解き放ってはならぬゆえ、おとなしくしておるだけだ」  そう言った端から咳が出る。今年の感冒は本当に質が悪いようだ。  喉の痛さを経験済みのイルハリムは、蜜を溶かした白湯を差し出して皇帝に飲ませた。 「どうか声を出さずにおやすみください。病人は休むのが責務にございますよ」  自身が療養中に言われた言葉で宥めると、皇帝は眉間に皺を刻んだまま沈黙した。  それを見た大宰相は、やれやれと言いたげに溜め息をついた。 「ともかく、関税については私どもで議論しておきましょう。陛下はくれぐれも絶対安静でございますぞ」  そう言い残して、大宰相は皇帝の部屋を後にした。  老齢の大宰相を筆頭に、宰相たちは極力この部屋に長居せぬよう皇帝から命じられている。その後ろ姿を見送ってイルハリムは皇帝の枕元に戻ってきた。  イルハリムが戻ると、皇帝は寝台から体を起こしてニヤリと笑った。  熱が出たのは本当だが、たった一日限りだ。皇帝は病を得たのを口実に、暫しの休暇をもぎとることにしたのだ。 「こちらへ来い、イルハリム」  大宰相と話していた時とは打って変わって、声もいつもと変わらない。時折皇帝はこういった悪戯な一面を見せて、イルハリムを驚かせる。  騙された老人を気の毒に思いながら、イルハリムは寝台に上がって皇帝の隣に寄り添った。温かな腕がイルハリムを抱き寄せ、二人してごろりと横になる。 「二人だけでゆっくり過ごすのは久しぶりだな」 「ええ、本当に」  建国祭からこちら、さまざまな要件が次から次へと湧いて出て、なかなか気の休まる暇がなかった。夜は一緒に過ごすものの、それ以外で自由な時間を持つことはほとんどできなかった。 「お前とこうしていると安らぐ。偶にはこんな日があっても良い……」  寝台の中で抱き合ったまま、目を閉じて皇帝が呟いた。イルハリムは皇帝の胸に頬を寄せたまま頷く。  宮殿内でこれ以上病を蔓延させないためにと、皇帝の部屋は現在人払いがされている。部屋付きの小姓たちも扉より中には入ってこない。  一度立ち去った病魔は同じ人間の元にはしばらく近寄らないと言われているので、堂々と側にいることができるのはイルハリム一人だ。  皇帝が闘病中のため、宮殿内の多くの業務は停止か縮小している。通いの者には出仕を控えさせたので、宮殿の中はいつもより静かだ。 「……穏やかですね……」  イルハリムが静かに話しかけたが、返ってくる応えはない。いつのまにか微かな寝息が頭上から聞こえる。病はほとんど回復しているとはいえ、疲れが溜まっていたのだろう。  イルハリムは微笑み、皇帝に寄り添って目を閉じる。  共に過ごすだけの静かな時間を愛おしく思いながら――。

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