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第2話 そのバリトンが好きなんだ

「お疲れ様でーす」  馨と共に『文月』に入ると、俺は受付にいた由香里(ゆかり)さんに声をかけた。 「風間くん、お疲れ。今日もよろしくね。巽くん、いらっしゃい」  由香里さんは洋一さんの妻で、自身もアマチュアインストラクターだ。棋力は三段。美人で気立ても良く、洋一さんとはお似合いの夫婦である。彼女にはよくしてもらっているというのに、彼女を見ると自分の恋がいかに絶望的かを思い知らされ、俺はその度に落ち込んでしまうのだった。 「やあ、風間くん。どう、ここには慣れてきた?」  そこへ背後から、大好きなバリトンが聞こえてきた。不意打ちに、俺の心臓は激しく高鳴った。  ――洋一さん。 「はい、おかげ様で。楽しく仕事させてもらってます」  意識しているのがバレないように、俺はわざとゆっくり振り返ると、素っ気なく答えた。 「そう、よかった」  洋一さんは柔らかく微笑んだ。俺はまた、ドキリとしてしまう。  ――本当に、カッコ良いよなあ。  すらりとした長身。色素の薄い柔らかそうな髪。目は切れ長で、鼻も唇も形良くて……。 「そうそう、風間くん、ちょっといいかな?」 「はっ、はい?」  由香里さんに声をかけられ、俺はぎょっとした。  ――見とれてたの、バレてないよな? 「今度うちで、囲碁の初心者を対象にしたイベントを開催することになったの。洋一と二人で、講師をやってもらえないかしら?」 「――本当ですか? もちろんです!」  ――バレてなかった……。てか、洋一さんと二人で? 嬉しすぎるんだけど!  満面の笑みで即答する俺を見て、由香里さんは都合よく誤解したらしかった。 「わあ、ありがとう。嬉しいな。風間くんも、囲碁普及に意欲があるんだ?」 「もちろんです!」  唯一俺のよこしまな思いを知る馨だけが、俺をじっとりした目で見つめていた。その顔には、「馬鹿?」と書かれていた。

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