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第3話 ゲイとも知らずに気の毒に

「じゃあ、詳しい話は後でね。いずみちゃんが、お待ちかねだから」  由香里さんが、店の一角を指差す。そこには、常連客の綾瀬(あやせ)いずみさんがスタンバイしていた。いずみさんは、目が合うと俺に手を振ってきた。それを見た馨は、「ラッキー」と小さく呟いた。馨は彼女のファンなのだ。 「風間先生、何だか今日、嬉しそう。いいことでもあったんですか?」  碁盤に向かうと、いずみさんは興味津々といった様子で尋ねてきた。彼女は二十歳の女子大生だ。某有名漫画の影響で囲碁に関心を持ったという彼女は、初心者歓迎のこの『文月』に勇気を出して飛び込んで来た。以来、俺の指導を気に入って通って来てくれるのである。 「うん、実はね……」  俺は早速、由香里さんから聞いた講座の話をした。すると彼女は、目を輝かせた。 「わあ、面白そう。風間先生が担当されるんだったら、私、絶対参加しますね!」 「――ありがと」  俺は、複雑な気分で礼を述べた。どうやらいずみさんが俺に好意を持っているらしいことには、前から気が付いていた。『文月』ではゲイだということを隠している手前、本当のことを打ち明けるわけにはいかないが、かといって客を邪険にもできない。取りあえず俺にできることは、彼女の気持ちに気づかないふりでスルーすることくらいだった。  いずみさんの指導を終えて休憩に入ると、馨がやって来た。彼は俺と彼女を見比べると、妬ましそうな顔をした。 「彼女、お前にぞっこんて感じだよな」 「やっぱりそう思うか?」 「見てりゃ、分かるよ。あー、ゲイとも知らないで、気の毒に。いっそ、バラしてやるかな」 「おい、止めろよ」  俺は焦った。大学時代は開き直ってカミングアウトしていた俺だが、さすがに社会に出てから同じことをする勇気は無い。 「冗談だって。お前の秘密は、絶対に守るから」  馨は、真剣に俺の目を見つめて頷いた。高校時代、俺はゲイとバレたことで、いじめのターゲットとなったことがある。中学時代からの親友である奴は、その事情をよく知っているのだ。 「頼むよ」 「ああ、分かってるって。――ところで、もうすぐ碁聖(ごせい)戦第二局だろ。棋院でやる大盤解説会、一緒に行かねえ?」 「何で俺もなんだよ。ああいうの嫌いだって、いつも言ってるだろ?」  俺は顔をしかめた。プロ棋士が大嫌いな俺は、プロの解説なんぞくそくらえ、といつも思っているのだ。 「それがさあ。聞き手、吉田菜乃(よしだなの)初段らしいんだ」  馨は、にやっと顔を緩ませた。吉田初段というのは、囲碁界のアイドルと評判の美人棋士である。 「万が一お話する機会があった時にさ、碁の知識無さすぎじゃ恥ずかしいだろ? その点、アマ五段のインストラクターのお前が一緒なら、心強いし」  ――そういうことかよ。  頼むよと押し切られ、俺は渋々、解説会に付き合うことにしたのであった。

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