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第5話 君の名は

  ――はっ? 俺、挙手したわけでもないのに……。  俺は虚を突かれた。 「すでに出た意見でも構いません……」 「七の十一」  思わず、俺は声を張り上げていた。こいつに協力しようなんて気はさらさら無い。でも、凡庸な手しか考えられないとも、思われたくなかった。 「七の十一に打てば、白はおさえる(相手の進出しようとしている方向に自分の石を打って、相手の進出を止める手のこと)しかありません。だから……」  解説の棋士は、俺の説明に黙って耳を傾けていた。彼は、俺が喋り終えると、にっこり笑った。 「素晴らしい。僕が補足する必要もありませんね。完璧な説明を、ありがとうございました」  俺は内心、拍子抜けした。てっきり、一笑に付されるものとばかり思っていたからだ。  ――こんなプロも、いるんだ。  一瞬そう思いかけて、俺はすぐに否定した。騙されるな、どうせうわべだけに決まってる。プロなんて皆、アマチュアを見下して、挙句には上手に利用する奴らばかりなんだから。そう、あの男のように……。  とはいえ何だか気になって、俺は解説の棋士をじっと見つめた。年齢は、俺と同じか、少し上くらいだろうか。背はそれほど高くないが、姿勢はピンとして、スタイルが良い。髪は染めているのだろうか、やや茶色がかっている。眉は濃く凛々しく、鋭い眼光と引き締まった唇が、彼に意思の強そうな印象を与えていた。  ――何て名だっけ。  俺は記憶を手繰り寄せた。  ――そうそう。  確か棋院のホームページでは、解説は遠坂秋江(しゅうこう)六段とあった。現在戦っている七冠の、弟である。  ――兄には及ばずとも、解説は上手ってとこか。  俺はもう一度、その棋士の方を見やった。  イベントが終わると、男の観客たちは一斉に吉田初段の元へ殺到した。馨もその一人である。先に会場を出ると馨に告げて、俺はさっさと帰り支度を始めた。 「ちょっと、君」  不意に、背後から声をかけられた。はっとして振り向くと、そこには解説の棋士が立っていた。 「君、名前は?」  ――何だよ。  俺は当惑した。そりゃ、ちょっと目立つ意見を言ったかもしれないけど……。 「別に、名乗るほどの者ではありません」  ――関わり合いになるなんて、ごめんだ。  素っ気なく答えると、俺は踵を返した。彼はなおも何か言い募ろうとしたが、その時、観客の一人が彼に声をかけた。 「天花寺(てんげいじ)先生!」  ――天花寺、だと。  俺は思わず、歩みを止めていた。

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