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第46話 兄の付き合っている人ですから
「――ああ、いえ、別に何でも」
匠さんは、我に返ったようにかぶりを振った。
「ところで、風間さんて、インストラクターをなさってるんですよね? 『文月』以外でもどこかで働いてらっしゃるんですか? この前『文月』にお邪魔した時、お見かけしなかったから」
――『文月』に来てたのか。いつの間に……。
俺は少し怪訝に思った。
「『文月』には週三日しか行ってませんから」
「じゃあ、他はどこかの囲碁サロンで?」
「いえ、元々フリーでやってたんで。今も、生徒さんを何人か掛け持ちしています」
すると匠さんは、目を見張った。
「へえ、すごいですね。フリーで働くのって、なかなか大変でしょう? 僕らなんかは、安定してますが」
「いやいや、プロの方が大変じゃないですか。何といっても、勝負の世界ですもんね」
まんざら悪い気もせず、俺は柄にも無くそんな台詞を吐いた。
「フリーの方に比べれば、大したことはありませんよ。風間さんは、きっとよほどの実力がおありなんですね」
「まさか。調子の悪い時は、生徒ゼロなんて時期もありましたよ? まあ今では、この手帳のスケジュールが埋まるくらい、予約が入ってますけどね」
お世辞というのは分かっているが、それでも嬉しい。何となく見せびらかしたくなり、俺は鞄から手帳を取り出すと、匠さんにチラと見せた。彼は、感心したような顔で頷いた。
「そうだ、風間さん、よろしければお名刺を頂けませんか? 碁を習いたがっている人がいたら、風間さんを紹介しますよ」
「本当ですか?」
――ラッキーだ。
俺はいそいそと名刺を取り出すと、匠さんに渡した。
「ありがとう。助かります」
「いえいえ、兄の付き合っている人ですからね。僕もお力になりたいですよ……。ああ、兄といえば、また随分長電話だなあ」
匠さんは、ふと思い出したような顔をした。
「ちょっと見てきますね……」
言いながら匠さんは立ち上がったが、歩き出した途端、彼はバタンと床に倒れ込んだ。
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