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第54話 旅行気分で行ってくれればいいよ
「実は僕、今度の名人戦第二局で、解説を頼まれることになってね」
優雅な手つきでコーヒーにミルクを注ぎながら、洋一さんが言う。以前なら、彼のこんな仕草にもときめいていた俺だが、今はもう、何の感情も湧き起らない。
――由香里さんを裏切って、いずみさんを弄んで。
二人とも、優しくて素敵な女性だ。そんな二人を苦しめている彼に、俺は一気に幻滅したのである。どうしてあんなに好きだったのかすら、思い出せないくらいだ。洋一さんは、俺が考えていることなど微塵も気が付いていない様子で、にこやかに話し続ける。
「名誉なことだけど、今僕は、かなり仕事が詰まっていてね。はっきり言って、パンクしそうなんだ。それで、風間くんにお願いがあるんだけど。名人戦の開催地まで一緒に来て、事務作業を手伝ってくれないかな? 秘書的な役割と思ってくれればいいから」
「僕が、ですか」
意外な頼みごとに、俺は戸惑った。以前なら、一も二も無く飛びついていただろうが……。
「開催地は金沢なんだけど、交通費も宿泊費も僕が出すからさ。頼むよ。ちなみに、日当は……」
洋一さんが立てた指の数に、俺はうっと声を上げそうになった。
――日当二万? それも、交通費と宿泊費付き……。
魅力的な誘いに、俺の心は大いに揺さぶられた。
――その日ならちょうど空いているし、いいか……。
引き受けますと答えると、洋一さんは新幹線の切符を取り出した。何と彼は、すでに指定席を取ってくれていた。ホテルも予約済だという。手回しの良さに、俺はびっくりした。
「新幹線の時間まで勝手に決めちゃって悪かったけど、席が取れないとまずいからね」
洋一さんは弁明した。
「いえ、別に予定も無いので、構わないですよ。ありがとうございます、何から何まで」
「こちらこそありがとう、引き受けてくれて。――ああ、そうだ」
洋一さんは、ふと思いついたように付け加えた。
「名人戦を見に行く、ということは人に話しても構わないけど、僕からこの仕事を頼まれたことは、誰にも言わないでおいてもらえるかな? というのは、由香里に知れるとまずいんだよね。彼女、お金に細かいから、文句を言われそうで……。僕としては、風間くんはいつも頑張ってくれているんだから、これくらいの慰労は当然だと思うんだけど……」
洋一さんは、ちょっと肩をすくめた。
「ま、温泉もあるみたいだから、旅行気分で行ってくれればいいよ。じゃあ、よろしく頼むね」
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