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第60話 いてもたってもいられなくなって

 すると彰は、不満そうに口をゆがめた。 「君が僕に、嘘をつくからじゃないか……。この前誘った時、様子がおかしかったから、巽くんに探りを入れたんだよ。そうしたら、名人戦の解説会に行くだなんて」  そういえば馨には喋っていたんだった、と俺ははたと思い出した。 「解説が文月九段だろう? まだ彼に未練があるのかと思うと、いてもたってもいられなくなって……。気が付いたら、新幹線に乗っていたよ」 「ばっ……。未練て、まさか。違うって!」  俺は、ぎょっとして否定した。 「もう洋一さんのことなんか、何とも思ってないから! 不倫してるってことで、幻滅したもん。それに第一……俺が今付き合ってるのは、お前だろ?」  俺としては、最大限勇気を振り絞って吐いた台詞だったが、彰はまだ疑わしそうな顔をしていた。 「でもついこの前まで、洋一さん洋一さんて、夢中になってたじゃないか。それに、いくら文月九段が女好きでも、女の子みたいに可愛い昴太を前にしたら、その気になるかもしれないし……」 「おい、何だよ、女みたいって!」  俺は気色ばんだが、彰は切なそうな目で俺を見つめると、俺の唇をそっと指でなぞった。 「昴太。愛してる……」  ゆっくりと、唇が重ねられる。少しの間会わなかっただけなのに、随分久しぶりな気がして、俺は目を閉じて彰のなすがままに任せた。彰とのキスは、心地良い。ずっとこうしていたかったが、俺はやはり、その前に誤解を解いておきたかった。 「彰」  俺はそっと彰を押し退けると、じっと彼の目を見据えた。 「本当に、洋一さんのことなんかもう好きでもなんでもないんだ。今回来たのは、彼に仕事を頼まれたから。お前に隠してたのは、口止めされたからで……」  俺は、これまでの経緯を詳しく説明した。 「つくづく、抜け目のない男だな。――いや、泊まるならどうせこのホテルだろうと思って来てみたら、『文月』の常連客と会ってね。彼らが綾瀬さんのSNSの投稿の話をしていたので、それで何となくピンときたんだ。そこへもってきて、このフロアに来れば……という怪しげな噂を耳にしたものだから、大急ぎで駆けつけた。間に合って、本当によかった」 「そうだったんだ……。でも、お前が来てくれて助かったよ。サンキュな」  すると彰は、くすりと笑った。

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