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第105話 彼氏のくせに何も知らないんですね
影山さんは彰に向かって、「初めまして」と微笑みかけたが、彰はにこりともしない。影山さんは、ちょっと苦笑いした。
「まあ、昴太くんに触ったのは謝りますよ。でも、別に変な意図はありません。ただ、彼の怪我の具合が心配だっただけです」
「怪我!?」
何だそれは、と言いたげに彰が俺を見る。すると影山さんは、彰を挑発するかのように微笑んだ。
「何だ、彼氏のくせに何も知らないんですね。昴太くん、自転車と接触して……」
「徹郎さん、もう止めてくださいって!」
これ以上べらべら喋られたらまずい、と思った俺は、慌てて影山さんを押しとどめた。しかし彰の顔は、どんどん引き攣っていく。
「結構です。昴太から直接聞きますから。ところで、昴太の仕事が終わるまで、こちらで待たせていただきますよ。一緒に帰りたいのでね。彼氏ですから」
「ああ、それはご遠慮いただけますか」
影山さんは、けろりと言った。どう見ても彰はブチ切れる寸前だというのに、彼に怯む様子は微塵も感じられなかった。
「だって、今日は囲碁講座ですから。現役のプロが来られたら、参加者の皆さんが大騒ぎしちゃうでしょ? あなた、彼氏のくせに、昴太くんの仕事を邪魔する気ですか?」
――頼むからもう止めてくれ!
俺は必死で祈った。彰は顔を真っ赤にして全身を震わせていたが、やがて「分かりました」と低く呟いた。
「じゃあ昴太、近くの喫茶店で待ってるから」
短くそれだけ告げると、彰は身を翻して去って行った。俺はほっとしながらも、彰が口で負けるところなんて初めて見たな、とぼんやり思ったのだった。
「で、怪我って何? 何で僕に黙っていたの?」
帰宅するなり、彰は苛ついた口調で俺を問い詰めた。
「実は……」
歓迎会に行ったこと自体は、彰も知っている。俺は、その帰りに拓斗を見かけたので追いかけようとした、その際に自転車にはねられたのだ、と話した。
「軽い傷だし、とっくに治ったから、心配させたくなくて」
影山さんのアパートで彼に手当てしてもらったことは伏せて、俺はそれだけを告げた。
「そうだったのか。そいつは、まだ都内にいるんだな……」
彰は、拓斗の行方を気にしている様子だった。
「まあいい。しかしだな。あの影山って男は、君の何なんだ? 下の名前で呼び合う仲なわけ? それに、大学の先輩だなんて、初耳なんだけど?」
「フランクにいこうって、影山さんから言われたんだよ……。大学が同じってのは、後で分かった。偶然だよ。別に、あの人とは何でもねえから……」
俺は、何だか泣きそうになってうつむいた。そんな俺を見て、彰は少し口調を和らげた。
「ごめん。きつい言い方して悪かった。もう止めよう。せっかく今夜は二人きりなんだ。喧嘩はしたくない」
「は? 二人きりって?」
俺は、きょとんとした。すると彰は言った。
「匠、今夜は外泊するから。たまには、僕たちに二人きりで過ごして欲しいって」
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