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第115話 彼はファンのことなんか何とも思っていなかったのだ

 俺が碁を始めたのは、五歳の時だ。今は亡き親父が教えてくれた。教師だった親父は、棋力は大したことなかったが、教え方はすごく上手かった。俺が最初、塾に就職したのも、親父の影響である。彼は、子供の俺にも分かるように、丁寧に図解した解説ノートを作って碁を教えてくれた。こうして俺は、すぐに碁の面白さに取りつかれていった。  小学生時代、俺はある棋士のファンだった。それが、当時三大タイトル(名人(めいじん)本因坊(ほんいんぼう)棋聖(きせい))を制覇して時の人だった、天花寺義重である。何とかして彼に会ってみたいと思った俺は、親父にせがんで、彼がゲストで来る囲碁イベントに連れて行ってもらった。俺が小四の時だった。  実際に見た天花寺義重は、穏やかで微笑みを絶やさない人だった。ファンたちにも、常に愛想良く対応していた。  ――すごい。もっと怖い人を想像していたけど、優しい人なんだ……。  俺は、いたく感激した。何とか彼に応援の気持ちを伝えたかったが、とても近づける機会は無さそうだった。子供の頭で悩んだ末、俺はこっそりと、『関係者以外立ち入り禁止』の部屋に忍び込んだのだった。  ――いる!  幸運にもそこには、天花寺義重がいた。彼は、一人でコーヒーをすすっていた。この機会を逃してなるものかと、俺は勇気を振り絞って、彼の元へ駆け寄った。 『あの! すみません。俺、天花寺先生のファンなんです』  しかし、天花寺義重は無言だった。さっきまでのにこやかな彼と、同一人物とは思えないくらいだった。俺はまるで透明人間にでもなったかのような気分だったが、それでもめげずに続けた。 『俺、先生のこといつも応援してるんです。これからも頑張ってください!』  彼は、俺の方を一瞥もせずに、黙りこくっていた。  ――何だよ、どういうこと……?  その時、スタッフらしき人間が部屋に入って来た。ようやく、天花寺義重が顔を上げた。 『おい。このガキを、つまみ出せ』  そして彼は、汚物でも見るような目で俺をにらみつけたのだった。  ――俺はただ、応援している気持ちを伝えたかっただけなのに……。  あの優しそうな態度は見せかけだけだった、彼はファンのことなんか何とも思っていなかったのだ、と俺はその時思い知らされた。  ――くそったれ。もうこんなイベント、どうでもいい……!  しかし、スタッフたちに部屋から引きずり出された後、何気なく鞄を開けて俺ははっとした。  ――無い。  親父が俺のために作ってくれた解説ノートが、どこにも無かった。

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