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第145話 こいつだけは駄目ですよ

「ああ、なるほど。兄さんは、婚約が嫌で、自棄になっているんですね? 確かに、騙した形になったのは悪かったです。でも、冷静に考えてみてください。吉田初段のお家は、高名な棋士の家系です。繋がりができれば、兄さんにとって大きなプラスになりますよ……」 「匠!」  我慢できないといった様子で、彰が怒鳴る。しかし匠は、何かに取り憑かれたように喋り続けている。 「形だけ結婚すればいいじゃないですか? 僕たちの両親みたいに。どうしても男性が良ければ、陰で浮気すればいいんですよ。これまでみたいな、後腐れの無い遊び相手とね。何なら、バレないよう僕が協力してあげますから。――でも」  匠はそこで、不意に俺を見た。その目は、激しい憎悪に満ちていた。 「こいつだけは駄目ですよ。付き合ったって、何のメリットも無いじゃないですか。頭は悪い、料理も下手。碁なんか、アマチュアじゃないですか。プロですらないんですよ?」  「てめえ!」  さすがに頭に来た俺は、匠につかみかかろうとした。しかし、彰の行動の方が早かった。バシンと、鈍い音がする。俺は息を呑んだ。 「それ以上昴太を侮辱したら許さんぞ」  彰が、低い声で呟く。匠はしばらくの間、殴られた頬を押さえて呆然としていたが、やがて再び薄く笑うと、鞄からカメラを取り出した。 「ああ、可哀そうに……。兄さんは、この男に騙されているんですね。目を覚ましてください。こいつは、とんだ淫乱男なんですよ? 兄さんには気の毒でとても言えなかったんですが、こいつはこの影山って男と浮気してるんです。兄さんが仕事で地方に行った晩、二人がキスしたのを僕は知っています。このアパートに来てからなんて、何をしていたか分かったもんじゃない。現についさっきまで……。さあ、これを見て下さい」  「いい加減にしろ、この卑怯もんが!」  遂にブチ切れた俺は、匠に向かってわめいた。匠の顔色が変わる。 「卑怯ですって?」 「だってそうじゃねえか。さっきから聞いてれば、彰にとってプラスになるだのメリットがどうだの、いい人ぶりやがって。この偽善者が!」 「そんなこと言っていいんですか」  匠の顔から、血の気が引いていく。 「この写真をあちこちにばらまかれてもいいんですか? 兄さんだけじゃなく、ほのか幼稚園にも送りつけますよ。それからあなたの生徒や……」 「やれるもんならやってみろ!」  一瞬、その場が静まり返った。

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