158 / 168

第158話 初めて、母と呼んでくれた

 その日俺は、リハビリを兼ねて彰の病室へ向かっていた。俺がひたすら心配していたのは、彰の手の具合だった。彰は今、俺が手配してやった碁盤で、左手で打つ訓練をしている。しかし、どうも調子が出ず、焦っているようなのだ。  病室へ向かう廊下で、俺は見覚えのある女性とすれ違った。 「詩織さん!」  俺は、思わず叫んでいた。 「彰の見舞いに行かれていたんですか?」 「ええ。今から、あなたの所へ行こうとしていたの」  俺と彼女は、待合室で向かい合った。詩織さんは今回の事件について、本当に申し訳なかったと言った。 「詩織さんのせいじゃないですよ」 「いいえ。我々親たちの責任よ。私も彼も雪乃さんも、何もしてこなかった……」 「僕ならもう大丈夫ですから。むしろ詩織さんには、お礼を言いたいくらいです。婚約発表の後、天花寺の家から彰を逃がしてくれたんですよね?」  そんなこと、と彼女は言った。 「産みっぱなしで、何もしてこなかったんだから。あれくらい当然でしょう」 「――あの。彰の様子、どうでした?」  俺は、思い切って聞いてみた。先ほどから詩織さんの顔が陰っているのが、気になっていたのだ。すると彼女は、顔をしかめた。 「大分まいっているみたいね」 「……」 「右手がなかなか回復しないようなの。ひきつれがひどいって。左手だと、なかなか調子も出ないと愚痴っていたわ。まあ、はっぱはかけてきたけれど……」  ――俺のせいだ。俺を助けたから……。 「でも、それは不調の根本的な原因ではないと思う。恐らく、精神的なことでしょう」  ――そりゃあ、あれだけのことがあればな……。  俺は、ますます気が滅入るのを感じた。しかし詩織さんは、何故かちょっと微笑んだ。 「でもね、私なんだか嬉しかったのよ。プロの世界で関わるようになっても、彰はこれまで、私とろくに口を聞こうとしなかった。――まあ、当然でしょうけど。それがまさか、あんな風に素直に悩みを打ち明けてくれるなんて」 「……」 「しかも、よ。初めて私を、お母さんと呼んでくれたの。初めてよ。きっと、あなたのおかげね」  俺は、ドキリとした。 「風間さん。あんな風にご迷惑をおかけして、その上こんなことをお願いするのは、心苦しいんだけど……。どうか、あの子の傍にいてやって下さる? もちろん、大変なことも多いでしょうけど……」 「もちろんです!」  俺は、間髪入れずに叫んでいた。 「必ず、彰を幸せにします。だからどうか、あいつのこと、見守ってあげてください」  ありがとう、と詩織さんは瞳を潤ませた。

ともだちにシェアしよう!