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第160話 あの部屋であいつを迎えてやりたい

「えー、そんな、もったいない!」  俺は、思わず大声を上げていた。『文月』は、由香里さんがほぼ一人で頑張って、あれだけの店にしたのだ。すると彼女は、更に思いがけないことを言った。 「確かにね。でも私、実は近々、海外に留学するつもりなの。慰謝料も入ったことだし、心機一転ってとこね」 「へえ……」  思い切った彼女の決断に、俺はただ感心するだけだった。 「私、囲碁一家に生まれたでしょう? それで、当然のように囲碁漬けの人生を送ってきて、プロ棋士と結婚したわけだけど……。でも、もう碁に縛られなくてもいいかなって、離婚を機に思い始めたのよね」  由香里さんが、にっこり笑う。女は強いな、と俺はまたしても思った。由香里さんも、いずみさんも、葵さんも……。 「お店、もう買い手はついたんですか」  すると、それまで黙っていた彰が、不意に口を挟んだ。由香里さんは、かぶりを振った。 「いいえ、まだよ。居抜きで売るつもりだけど……」  そこへ、馨から電話がかかって来た。お袋が迎えに来たらしい。 「親が来たみたいなので、そろそろ失礼します。じゃあ彰、お先にな」 「あら、じゃあ私もご一緒するわ。風間君の親御さんにご挨拶したいし……」  由香里さんは、俺の後に続こうとしたが、何故か彰は彼女を引き留めた。 「由香里さん。少し、お話してもいいですか? 昴太、僕も後で行くから」 「ええ、いいけど……?」  何やら話し込み始めた彰と由香里さんを病室に残して、俺は自分の病室へ戻ったのだった。 「しかし、一体何なのかしら! 天花寺義重九段も、その奥さんも、一度も見舞いに来なかったじゃない」  退院する帰り道、お袋は車を運転しながらぶつぶつ文句を言った。同乗している馨は、気まずそうな顔で俺の方を見た。 「プロってのは、いばってるものなのかしら……。ああ、そうそう、隆之さんとも話していたんだけどね。弁護士を立てて、天花寺夫妻に損害賠償請求をしようと思うの。治療費はもちろん、慰謝料も払うべきよ。本人は亡くなったけど、親に義務があるって聞いたわ」  彰の家と争うのは嫌だけど、仕方ないだろうな、と俺は思った。 「それより、本当に実家へは戻らないの?」  お袋が、顔をしかめる。俺は、彰と匠が暮らしていたマンションに荷物を運ぶ、と言い張ったのだ。影山さんのアパートにあった荷物も、すでに馨に頼んで移動済みである。 「どうしてよ。あなたを殺そうとした人間が、住んでいた部屋じゃないの……」 「いいから!」  お袋は、なおもぶつぶつ言っていたが、俺は押し切ったのだった。  ――彰が退院した時に、あの部屋であいつを迎えてやりたいから……。

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