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第161話 本当に棋士でいたいんだろうか
それから、さらに一か月以上が過ぎた。俺は、退院した彰と一緒に、彰のこれまでのマンションで暮らしている。あの事件の前は、二人でどこか新しい所に住もう、なんて言っていた彰だが、今のところ奴にその気配は無い。天花寺夫妻(もう離婚したから夫妻とは言えないのか?)は、匠の遺品を引き取る気が無いようで、奴の部屋はそのままになっている。俺の方から引っ越したいとは、何だか言い出せなかった。もしかしたら彰は、匠の思い出のある場所で暮らしたいのかな、と思ったからだ。
それに俺はそんなことよりも、彰の碁の調子が気がかりだった。彰は、入院していた頃のように荒れることは無くなったが、一方で碁の勉強をしている様子も見られないのだ。昼間は、どこへ行っているのか知らないが、あちこち出歩いている。これから大事な棋戦も控えているのに大丈夫だろうか、と俺は密かに心配しているのである。
そんなある夜。彰は、妙に晴れやかな顔で帰宅した。
「昴太。君に見せたいものがある」
夕食後、奴がそう言って出してきたのは、何やら書類の束だった。
「何これ……? ん、契約書?」
さっぱり内容が把握できない俺は、首をかしげた。すると彰は、にっこり笑った。
「僕、『文月』を買い取ったんだよ」
「――ええーっ」
一拍遅れて、俺は大声を上げた。
「じゃあ何、お前があの店を経営するってこと?」
「そうだね。オーナーだ」
彰はけろりと言った。
「最近出歩いてたのって、これだったのかよ? 何でまた……。てか、棋戦も控えてるってのに、そっちは大丈夫なのか?」
「ああ、そのことなんだけれど……」
彰は、不意に真面目な顔になった。
「あの事件以来、僕は思うような碁が打てなくなった。単に利き手をやられたから、というだけじゃない気がした。不安と焦りで悩んでいたそんな時、由香里さんがヒントをくれたんだよ」
「由香里さんが?」
「うん。彼女、言っていただろう? 碁に縛られなくてもいいかと思ったって。あれで僕は、目から鱗が落ちたんだ。僕も彼女と同じで、囲碁の家に生まれた。そして、父や母や雪乃さんへの対抗意識だけで、ひたすら棋士として突き進んできた。でも改めて考えると、僕は本当に棋士でいたいんだろうかって、疑問に思えてきたんだ。そうしたら、何だか吹っ切れてね。自分らしくない碁をだらだら打ち続けるのは止めて、囲碁サロンの経営に乗り出そうと思う」
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