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第165話 あいつの気持ちを尊重したい

  ――こいつ……。  俺は、呆然と義重の顔を見つめた。脳裏には、いつかの彰の言葉が、まざまざと蘇っていた。 『あの男は、僕に愛情なんて無い。彼にとって僕は、単なる囲碁の後継者でしかないから……』  ――あの時は、そんなこと無いだろうと思ったけれど。でも、まさか本当だったとは……。 「本人は、引退とは違う、休場だと言い張っているようだが。でも実質、引退のようなものだろう。それに、ブランクを設ければ勘だって鈍る。そりゃ、火傷やら精神的ショックやらで納得のいく碁が打てず、もどかしいという気持ちも分からなくは無いが。でも、そんな一時の気の迷いで決断したら、取り返しがつかなくなる……」  俺の思いに気づかない義重は、渋い顔で話し続けている。 「頼むよ、風間君。私は、匠のせいで引退せざるを得なくなった。だから彰には、跡を継いで欲しいんだ。天花寺の家は、由緒ある囲碁棋士の家系だ。彰が君を選んだことでその次の代が望めないのは嘆かわしいが、そこは百歩譲って目をつぶろう。でも、私が棋士として最後になることだけは避けたい……」 「いい加減にしてください!」  俺は、思わず声を荒げていた。義重が、顔色を変える。 「人がここまで譲歩しているのに、その言い方は何だね」 「どこが譲歩ですか。あなたは、自分の我儘を子供さんたちに押し付けているだけじゃないですか」 「何だと?」 「あなたは、葵さんがどうして家を飛び出したか分かりますか?」 「葵は今関係無いだろう」  そう言いながらも義重の顔には、わずかに狼狽が走った。 「彰も匠さんも葵さんも、碁に、あの家に、そしてあなたに縛られるのが嫌だったんですよ。彰は仕方なく囲碁棋士の道に進んだけれど、あいつはもう、解放されたいと思っています。さっきあなたは、一時の気の迷いと仰ったけれど、あれは彰なりの苦渋の決断です。僕はそれを知っているから、あいつの気持ちを尊重したいと思っています。それを、自分が引退するからって、無理やり彰に棋士を続けさせるのは、我儘だって言っているんです」 「……」 「――それに」  俺は、どんどん怒りが沸いてくるのを感じていた。 「あなたは、匠さんのせいで引退しないといけなくなったって仰いましたよね。でも、彼がどうしてあんな事件を起こすに至ったか、考えたことはあるんですか? あなたが不倫して家庭をめちゃくちゃにして、苦しんだ奥さんが匠さんに暴力を振るっても、知らん顔してきたからじゃないですか!」 「――何もかも私のせいだというのかね! 何と、失礼な……」  義重は、怒りに唇を震わせていた。俺は、キッと彼を睨み返した。 「金なんか、一銭も要りません! ――そんな金があったら、匠さんを手厚く葬ってあげてください」

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