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第167話 一種の取引だ

 店が開店すると、次々と客が訪れ始めた。前から知っている常連客もいれば、オーナーが彰に代わったと聞いてやって来た、新規の客もいた。  開店から数時間後、ようやく客が途切れた。休憩に入る前に店内を片付けようとした俺は、店の片隅に、見覚えのある碁盤があるのに気が付いた。 「これって、匠さんのだよな?」  そう尋ねると、彰の顔に狼狽が走った。 「覚えてたのか……。いや、その、葵は碁嫌いだから、彼女には持たせられなくて。かといって、捨てるのももったいないかな、と。でも、君が嫌なら処分しても……」 「別に、嫌じゃないって」  俺は微笑んだ。そうは言っているが、彰は彼の思い出の品を持っていたいのだろう、と思ったのだ。 「――なあ。店が落ち着いたら、匠さんの墓参り、行こうな」  彰は一瞬目を見張った後、静かに頷いた。  ――行ったら、彰を一人にさせてやろう。きっと彰に、一番会いたいはずだから……。  サロンの一角にある小部屋で、俺たちは簡単に食事を済ませた。彰と出会って一緒に仕事をするようになった頃、よく打ち合わせに使った懐かしい部屋だ。初めてキスした場所でもある。  ――あの頃は、彰に反発ばかりしてたんだよな。まさかこいつと一生を共にするようになるなんて、当時は夢にも思わなかった……。  俺がそんな思い出に浸っていると、彰は俺に何やら封筒を差し出した。 「これ、君に。開店祝いだ」 「何これ? ていうか、開店祝いなら、俺がお前にやるべきだろ……」  怪訝に思いながら封筒を開けた俺は、目を見張った。それは忘れもしない、俺の親父が作った解説ノートだったのだ。 「これ……。取り返したのか?」 「この前、父に会いに行ったんだよ。匠の法事も終わって、もう二度とあの家に足を踏み入れることは無いと思っていた。でも、このことだけが気がかりでね。物持ちのいい人だけにもしやと思ったら、案の定まだ持っていた」 「一体、どうやって……」 「父に言ったんだ。これは昴太のお父さんの、大切な形見なのだと。これを返して欲しい、返してくれれば、棋士に復帰してもいいとね。あの人が、僕に棋士を続けさせたがっているのは分かっていたから。一種の取引だ」  俺は息を呑んだ。俺は、天花寺義重との一連のやり取りを、一切彰に話していない。でも彰は、父親の思いに気づいていた。そして、このノートが返って来たということは……。

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