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タイルの壁
宮原は1年2組の教室に入るとまだ数名しか生徒の姿しかなく、同じクラスメイトの松下もまだ学校には来ていない。
「おはよ」と挨拶を済ませると、宮原は自分の机に座り、頭を突っ伏した。
『…7時10分かーーー』
宮原はカバンの中からタオルを取り出し、ホームルームの開始時間まで惰眠を貪ろうと目を閉じる。
窓の隙間から心地良い風が入り込み、カーテンに遮られた日差しが淡く宮原を照らす。
校舎に反響をして、吹奏楽部の演奏の音が微かに聞こえる。
いつもの普通の日常に鼓動が弛んでいく。
ーーー宮原は簡単に意識を手放した。
「ーーーい!……おい!!
宮原!ーーー起きろって!」
「…んあ?……」
松下の声に宮原は一気に現実に引き戻され、目を擦り、ゆっくりと開ける。
机の上で同じ体勢で身体を屈めていたので、背中を反らせ、「うーん!」と背伸びをしながら欠伸をする。
「ーーー何?
ホームルーム終わった?」
返事のない松下の声を不思議に思い、宮原は片目をよく凝らしてみると既に1限目の英語の授業が始まっており、教壇に立つ教師が宮原を睨み付けていた。
「宮原、お目覚めか?」
「ーーー!!ーーー
す、すみません!!」
机の中から英語のテキストとiPadを慌てて取り出し、カバンの中にタオルを片付けようとバックルを開けると、サッカー部のロッカーに戻す筈だった沢海のシャツがそのまま入っていることに気が付く。
『……あ……』
早朝からの『牛乳瓶の底のような眼鏡とコンタクトレンズ』で、返すのをすっかり忘れてしまっていた。
『ーーーしょうがない。
昼休みに沢海先輩の所に行ってこよう』
■□■□ ■□■□
私立蒼敬学園は大きく分けて進学コース、普通科コース、特別進学コースとあり、そのコース毎に校舎が別棟になっている。
沢海は普通科特別進学コース、宮原は普通科進学コースを選択しているので、校舎も学年も違い、見慣れない教室に宮原はキョロキョロしてしまう。
昼休みになり、母親の作ったお手製のお弁当を急いで食べ、別棟の2学年の特進クラスに出向き、沢海を探してみるが見当たらない。
暫く廊下で待ってみても一向に姿が見えないので、同じクラスメイトの人に聞いてみる。
「あの…すみません。
沢海先輩っていますか?」
「ーーーあれ?
宮原?どうした?」
宮原の背後から声を掛けられて振り向くと、そこには藤本がコーラを片手に廊下を歩いてきていた。
「藤本先輩!
ーーーあの、藤本先輩って沢海先輩と同じクラスですよね?
沢海先輩っていました?」
「あぁ。そうだけど……うーん?」
藤本は少し考え込む仕草をする。
「教室にいないとなると、多分、屋上へ行ったかもしれないな…」
「ありがとうございます!」
宮原は藤本にお礼を言うと、そのまま廊下を走って校舎の屋上へ向う。
「宮原!廊下、走るなよ!」と藤本の声がするが、宮原は「はーい!」と返事だけ素直に従った。
屋上の頑丈な扉を開けると、コンクリートの床に反射した太陽の眩しさに目を眇める。
屋上には空調の大型室外機がタイル張りの壁とフェンスに囲まれ、何人かの生徒がそこで友人達とお昼を食べたり、話したりしている。
『ーーー沢海先輩、何処にいるんだろ…?』
一箇所、一箇所そっと確認をしてみるが、別の生徒ばかりで沢海が見当たらない。
出入り口から一番遠いフェンスの奥に少しスペースがあり、そこを覗いてみると、沢海がタイル状の外壁に寄り掛かって眠っていた。
その壁は強い日差しを色濃い影に変え、屋上に吹き上げる強風も遮る。
沢海は制服の灰色のブレザーを脱ぎ、緩めたネクタイとワイシャツが流れる風にゆらゆらと煽られている。
心地良い環境に沢海は、規則正しい呼吸をしてゆっくりと胸が上下している。
「ーーー沢海先輩…?」
その瞬間、宮原の頭の中に鈍器で殴られた様な強い衝撃、激しい痛みが襲う。
『ーーーえ?……何……?』
ーーータイルの壁。
ーーー意識を失った身体。
ーーーだらりと垂れる下肢。
何かの記憶ーーー映像と音がーーー感覚と感触を蘇らせ、宮原の脳裏にフラッシュバックしてくる。
『あれは?……何処なんだろう……』
ーーーシャワーの音。
ーーー押さえつけられた手首。
ーーー動かない左膝。
怖い。
ーーー怖いーーー
「……助け、てーーー
怖いーーーこ…わいよーーー」
無理矢理に嚥下させられる恐怖に身体が竦み、手にしていた沢海のシャツを床に落としてしまう。
歯列がカチカチと合わなくなり、宮原は強張っていく身体を自分の指を噛んで押さえる。
目を見開いたまま、涙が止め処なく浮かび上がってきては零れ落ちていく。
「いや……もう、や…めてーーーやめて、よぅ…
離し……て…
ーーー痛い……もう、ヤダ…
嫌、だーーー」
宮原の拒絶をする声が沢海の耳に微かに伝わると、沢海は浅い眠りを覚まし、異変に気付く。
すると沢海の視界の中に、両膝を付き、指を噛み、声を殺して泣いている宮原が飛び込んでくる。
「ーーー宮原!!宮原っ!!
どうした?ーーーしっかりしろ!
ーーー宮原っ!」
宮原の指の隙間から血と嗚咽が漏れてくる。
「…やっーーー離して。
離してよぅ……
ーーーもう、触らない、で……」
「宮原……」
沢海は宮原の指を優しく包み込み、ゆっくりと口元から指を引き剥がす。
「大丈夫。
ーーー大丈夫だから」
ヒューヒューと気管が鳴り、呼吸が荒い。
息を飲み込んで苦しく喘ぐ宮原に、沢海は落ち着かせるように柔らかく背中を摩る。
沢海の膝の上に宮原を横抱きにして、身体を包む。
「…あーーーヤ……
ヤダーーーヤダよぅ……
ーーーソ……ミ、先輩ーーー
沢海、先輩……」
宮原は沢海の肩に顔埋め、不安な心を吐露する。
ーーー足の間から無理矢理、捻じ込まれていく男の男根。
ーーー耳元を伝う、興奮した男の鼻息。
ーーー何度も打ち付けられる楔。
「…ヤダっ!!
ーーー離して!…もう、しないで!!」
沢海は頭を振る宮原をそっと引き、舌で宮原の唇の輪郭を辿り、薄く開いた唇から舌を入れる。
「宮原、オレだよ?
ーーー分かるだろ?
オレを見ろよ」
ぼんやりとした目線を向けられ、沢海は宮原の前髪を後ろに梳く。
「ーーーなんで、オレを……
なんで、オレを。
ーーー犯したの?」
沢海は宮原の心に負った傷の深さーーー癒えない傷にーーー切なく、眉根を寄せた。
戻ることが出来ない、無くすことが出来ない過去はもう消す事も、消える事もなく、記憶の片隅として残ってしまっている。
ーーーだから、自分の身体を無意識に傷付けてしまう程の辛い記憶を「別の記憶」に変えてあげたかった。
「ーーーごめん…
ごめんな……
許してくれよーーー
……宮原の事、もう傷付けたりしないから。
傍にいるから」
ーーーこのまま、オレの所為にしていいいから。
ーーーもうこれ以上、傷付かないで。
ーーーもうこれ以上、泣かないで。
ーーーオレは宮原を、好きだから。
「宮原ーーー好きだ…
……好きだよ……」
涙の跡が残る頬に触れ、宮原を見詰めると、壊れ物を扱う様な仕草でもう一度口付けをする。
2人の吐息が絡み、お互いの体温を感じる。
宮原の目が沢海の目を捉え、滲んだ視界を形があるものへと浮かび上がらせる。
宮原は瞬きを繰り返すと沢海を見詰め返す。
ーーー沢海先輩はオレの事を好きなの?
ーーー沢海先輩はオレの事を好きだから犯したの?
ーーーなのに、なんでそんなに優しいキスをするの?
ーーー沢海先輩……
沢海先輩の事、好き……
ーーー好きだから…
宮原が右手を沢海の首筋に絡める。
スッと自分の方に引き寄せる仕草に、沢海は宮原の顔を覗き込み、微笑が零れる。
自然に2人の唇が合う。
触れるだけの長い、長い口付け。
唇が離れると宮原は目を閉じて、意識を手放した。
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