5 / 9

第5話

 05      目は覚めた。  ゆっくり自分の手を持ち上げると、手首の傷は皮膚を引きつらせながらも、一応の処置がされていた。  傷口がない。血がもう出ていない。  あれからどれくらい時間が経ったのかわからない。覚醒間もない頭は鈍い思考回路のまま、ただ、足りなかったんだと考えついた。  衝動的に転がったままになっていた工具を掴み、再び手首に突き立てる。  しかし、それは叶わなかった。  皮膚に食い込むどころか、硬い音とともに、工具の刃が折れ、地面に落ちた。  鈴音は、困惑する。  どうして。  そのとき、扉が開いた。  そこに立っていたのは父で、怒りのためか顔がしかめられていた。父は、大股で室内に入ると鈴音の頬を打った。  じんじんと感じる痛みに、更に困惑が広がる。   「よくも、また、私の前から消えようとしたな。そんなに私の側が嫌か、私が嫌いか。アイツの側に行きたいのか!」  『また』とはいつのことで、『アイツ』とは誰のことなのか、鈴音にはうっすら検討がついていた。  目を閉じる。  『あの女』とは、自分の母のことで、『また』とは、母が父を裏切ったときのことで、『アイツ』とは、母が好きになった男のことなのだ。  組み敷かれ、全身の愛撫を受ける。  繰り返される激しい行為の中で、父は言った。 「もうお前に自分で自分を傷つけることはできない。足にも鎖をつけてあげよう」  それは、魔法だった。  父の得意な防御と捕縛の魔法だ。  そうかと納得する。  だから、刃は折れた。だからもう、鈴音は自分から死ぬことはできない。もう、妹を救えない。  そうか。  そうなんだ。  ***  竜は、あの少年のことが気になってしょうがなかった。  仲間には、「人間のことなんて放っておけ」と一蹴されたが、それでも、ひっかかり続けた。  黒い翼を揺らし、空を舞う。  やがてはまた、ワ族の城の中へ入っていた。こうしていても、少年のいる場所は地下だ。会える見込みはない。  それに、城内に入ったとしても、牢まで行くには鍵が必要だ。  竜は上空で右往左往を繰り返した。  やがて、覚悟を決めた。  ***  手に入れた鍵で、地下への扉を開く。階段を降りると、小さな扉がもう一つある。その鍵も外しノブを捻る。少年が視界に入る前に、慌てて竜は魔法を解いた。  室内には、前と同じように少年が横たわっていた。  眠っているようにも、気を失っているようにも見える。力ない様が痛々しかった。 「おい、人間」  声をかけるも反応はなく、心配になった竜は、その翼で少年の頬を軽く叩いた。ゆっくりとまぶたが持ち上がり、赤い瞳が現れる。  その瞳は暗くなかなか焦点を結べないようだった。  やがて、竜の姿を認めると、驚いたように目を瞬かせる。 「何があった? こんな、酷い……」  言葉に詰まる。衣服は剥かれ、白く貧相な身体には血が滲み、あるいは青く痣を作っていた。  少年は、竜に怖々と微笑んだ。  竜の背筋に寒気が走る。 「酷い」  少年も人間だというのに、ここまでのことをする人間に怒りがこみ上げる。  少年は笑んだまま、首を振った。口が開く。 「そんなことないですよ」  それは、初めて聞く少年の声だった。  知らず俯いていた竜は顔を上げる。  透明な濁りのない、けれど弱々しい声だった。負けじと竜は言う。 「お前はかわいそうだ」 「そんなことはないです」  白髪の下、赤い目が細められる。 「そんなことは、思ってはいけないんです」  言われたことの意味がわからず、竜は頭を捻った。  思いたくないのではなく、思ってはいけないと、まるでそう思うことを強制的に禁止されているかのような言いぶりだ。 少年は、続く沈黙に先を促されているんだと気がつき、再び声を発す。  「かわいそうなのは、この国の住人達で、父様で、妹で、妹の母様です。酷いのは、僕です。かわいそうなんて、思ってはいけないんです」    やはり意味がわからず、竜は今度は反対側に頭を捻った。  ただ、少年の考えが酷く悲しく思え、苦しくなる。  そんな竜の様子に、少年は小さく笑った。  触れようというのか手が伸ばされるも、途中で躊躇ったようにピタととまった。あとわずかなその距離がもどかしく、竜は首を伸ばした。  指先に頬ずりをする。  その指には、あの時自分がつけた牙の跡があった。  今、少年はくすぐったそうに笑っていた。その様にホッとする。 「お前の名はなんだ」 「鈴音、といいます」 「そうか」  鈴音の指がわずかに動いた。竜の首裏をこするように撫でる。  気持ちがいい。 「魔族さんは優しいですね。魔族さんなのに」  その言葉に、竜はハッと我に返った。  鈴音の指を振り払い、顔を赤くする。 「か、勘違いするなよ、人間。俺は、俺はだなあ」  視界の片隅に皿の乗った盆を見つけ、そこに頭をつっこむ。平皿の上の肉に噛みついた。そして、また鈴音の方を振り返る。  ふがふがと、鼻息が荒い。   「お前の食べるモノを頂こうと思っただけで」  「そう」と、表情を曇らせる鈴音に、しまったと思うも、肉はとりあえず飲み込んだ。    視線を外してしまった鈴音の元へ行き、軽く額をつつく。  竜には鈴音が、哀れでならなかった。  だから、「何ですか」と、緩く微笑む鈴音へ、言った。 「俺が、一緒にいてやるよ」

ともだちにシェアしよう!