86 / 136

小料理屋『青柳』にて 4

「そりゃあ、名前も知らない酔っ払いをあそこまで連れて行って、一晩面倒みたんだから、こっちにも少しはメリットがないと。お蔭で目は楽しませてもらったわ、なかなか立派なものを持ってるわね」  涼しげな顔で言い放つ総一朗をねめつけて、創は「騙したな」と恨めしげに言った。 「騙した?」 「オレをひん剥いて、写真撮って、それをネタに脅迫して……」 「人聞きの悪いこと言わないでよ、写真なんか撮ってないわ。だって、ああでも言わなきゃ、あなた、アタシの方なんか振り向きもしなかったでしょう」  だとすれば──あの晩、二人の間には「何もなかった」ことになる。  そうとわかってハッとする創に、総一朗はいつになく真剣な、そしていくらか悲しげな眼差しを向けた。 「そういうこと。キミとボクの間には何もなかった。今ならまだ引き返せるよ」 「引き返すって……」 「女性を愛する、普通の男に戻れる」  ズキッと締めつけるような痛みが胸を襲う。目を泳がせる創を見やったあと、総一朗は寂しげに視線を落とした。 「仮の姿はやめて欲しいと言われたときから、うすうす感じてはいたんだ」  決定打は医務室でのキス──こちらの誘いにイヤイヤ応じていたはずの年下男が自分に対して、本気になってしまったとわかった。  そのあとの不可解な反応は総一朗の戸惑いと迷いの表れだったのだ。 「そう仕向けたのはボク自身だ。キミに恨まれても仕方ないと思っている」  まるで後悔しているかのような口ぶりに血の気がスッと引いたが、波が打ち返すごとく、反動的に怒りが湧き起こる。

ともだちにシェアしよう!