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光って見えるぜ#1
「了介さん、なにしてますか?」
愛しい恋人の声に、天馬了介はキーボードを打つ手を止めた。スマホに向かってささやく。
「依頼人との面談が終わって、今、報告書を作ってるところ。……ごめん、まだお客さんいるんだ。折り返し掛けていい?」
「あ、じゃあいいです! 仕事中にごめんなさい。お仕事頑張ってくださいね」
「うん、ありがとう」
通話を切ると、依頼人の初老の男が「奥さんですか?」と尋ねてきた。天馬は笑って、曖昧にうなずいた。
天馬了介の十七歳下の恋人、村岡征治。四か月前に妊娠三か月目であることが発覚し、現在も妊娠中。七か月目である。
村岡はこのところ、育休をとり自宅にいる。一人では決して出歩かない。
というのも、六か月のとき事務所にいる天馬に会いに行こうと一人で電車に乗り家を出たら、男体妊娠に好奇の目を向けてくる若い男たちのグループに絡まれたことがあったのだ。
男体妊娠は数が少なく、偏見や奇異な目で見られることが多い。差別も根強くある。若者たちも村岡を嘲弄や揶揄の目で見て、村岡がホームに降りるとあとをついてきた。そして、彼の脚を引っ掻けて、地面に転ばせてしまったのだ。
駅員が助けに来てくれ、村岡はそれ以上酷い仕打ちをされずに済んだ。流産もしなかった。
しかし、話を聞いて駅まで迎えに来た天馬の胸で、村岡は泣いた。みんな酷いと言った。そして、おれたち男同士の子どもで、赤ちゃんはほんとに幸せになれるのかな、と訴えた。
以来、村岡は一人で外出することをやめた。天馬も、散歩くらい行ってみたら、などとは言えなかった。あの駅での出来事は、村岡にとってトラウマになっていた。
天馬はなるべく早く帰宅することにしている。そして、一人で家に閉じこもっている村岡が寂しくなって電話してくると、仕事が忙しくても必ず出るようにしていた。村岡は村岡で、天馬が今手を離せないと言えば、お仕事頑張ってくださいと言って切るのが常だった。
休みの日も、村岡は家にいたがった。天馬も無理強いせず、食料の買い出しにスーパーに行くときも、自分一人で向かっている。そして家で二人でくつろぐようにしていた。
しかし、この日天馬は思っていた。ぜひ、征治と出掛けたい、と。
「う……。す、すごい、よかった」
ハンカチで涙を拭きながら、村岡は感極まった声を漏らした。号泣したので鼻が赤く、鼻水も垂れている。ぐしゃぐしゃのハンカチで顔を拭いた。天馬はそっと恋人の肩を抱いた。
「ああ、よかったな。勇気づけられた」
「おれも! 了介さん、いっしょに誇りを持って赤ちゃんを育てていきましょうね!」
天馬は力強くうなずき、村岡の手を握った。
市民ホールで開かれた、「男体妊娠に対する理解を広げる啓発講演会」に二人で参加していたのだ。
講演会では、同性パートナーとのあいだに二児を設けた父親の男性講師が、男体妊娠への理解を求め、偏見をなくし、公的な制度や支援も充実させていこう、という内容を語った。講師の語り口はユーモアにあふれ、パートナーと子どもへの愛情に満ちていた。男体妊娠を支援するNPO団体のスタッフたちも応援に駆け付け、会場は男体妊娠の当事者たちをはじめ、あたたかいムードに包まれていた。
「おれも『パパママくらぶ』、参加してみようかな……」
ぽつりとつぶやく村岡。二人が暮らす神投市で開かれている、男体妊娠当事者たちが月に一度集まって悩みを話し合う自助グループのことである。
村岡の顔がふと曇った。
「でも、平日の夜か……。電車で行くのは心配だし……」
「おれが送っていくよ。帰りも迎えに行く」
村岡はぱっと天馬のほうを振り向いた。あたたかい微笑みを浮かべる天馬に、村岡の体から気負いや不安や恐怖が流れ落ちていく。ぎゅっと天馬の手を握った。
「いいんですか?」
「うん。仕事早めに切り上げて帰るから。それに、おれもいっしょに参加しようかな。パパも参加できるって言ってたよな?」
「はい!」
村岡はまた涙ぐんだ。妊娠と出産、それに育児にも積極的な天馬に、体が軽くなる。この人との子どもを身籠ってよかった、と思うのだ。
階段を降りたとき突然、体が揺れて、村岡はよろめいた。お腹が重くて、うまくバランスがとれなかったのだ。
天馬がぐっと腕をつかんで、村岡を支える。なんとか転ばずにすんで、村岡は冷や汗をかきながらほっと息を吐いた。
「足元気をつけて、な」
「はい。あ、でも、スニーカーの紐ほどけそう」
苦労してかがもうとする村岡を制し、天馬がかがんで紐を結び直してやった。ガラスの靴をはかせる王子様のように恭しく跪く天馬に、村岡の顔がぽっと染まる。
「あ、ありがとうございます」
「ん。なんでも頼ってくれよ。おれは、お腹に赤ちゃんは宿せないから。征治が一人で頑張ってること、もっとおれにも分けてくれ」
その言葉がうれしくて、村岡は泣いた。鼻水も垂れそうになっている。天馬がハンカチで涙を拭いてやり、鼻を拭ってやった。ぎゅうっと天馬の腕にしがみつく。
「了介さんみたいな優しいパパだと、息子もきっと幸せです!」
「征治みたいに頑張り屋さんで可愛いママ、息子は自慢に思うぞ~!」
のろけ合戦である。よく見れば、市民ホールの玄関に向かう講演会の参加者たち(大半が当事者カップル)も、今度の講演会に励まされたのか、らぶらぶオーラが立ち昇っている。
ほこほこと幸せな気分で、二人は駐車場に向かった。天馬が運転する白いポロの前まで無事辿りつく。
村岡を助手席に座らせると、天馬は運転席に座りながら言った。
「このまままっすぐ帰る? それとも、近くにショッピングモールあるから、覗いて帰るか?」
「んー……」
本当は、生まれてくる赤ちゃんのスタイが欲しかったのだ。村岡の祖母、典子が水色のボーダーにてんとう虫の刺繍が入ったものを一枚プレゼントしてくれたのだが、一枚では足りないだろう、と考えていた。
「スタイ見たいけど……」
「外を歩くのは、心配か?」
「……ん……」
暗い顔になる村岡の頭を、天馬はそっと撫でた。
「じゃあ、むりすることないよ。帰ろう」
「はい。……あの、でも駅前のパン屋さんには行きたいです。明日の朝ごはん、フレンチトースト作りたいから、食パン買いたくて」
「あそこの食パン、ふわふわで美味いもんな。よし、じゃあ行こう」
車は満車の駐車場を滑り出ていく。移り変わる景色を見ながら、あの講演会が開かれたホールの中にずっといたい、と村岡は思った。
「ありがとう、了介さん。でも、おれ、わがままかな」
オレンジと紫に暮れなずむ空を見ながら、村岡がぽつり言った。天馬はハンドルを切り、前を向いたまま尋ねる。
「わがまま、って?」
「外出しないのとか……」
「わがままじゃないよ。征治は、酷い目にあって、怖い思いをした。自分の身を守るのは当然のことだよ。自分を責めないで」
「……ん」
村岡が駅で転ばされたとき、天馬は烈火のごとく怒ったが、村岡はただ泣いていた。怒りを怒りとして感じるのではなく、怒りが悲しみとして発露してしまうのだ。そのため、村岡は過去に何度も、元カレやセックスした男たちから酷い扱いを受けてきた。怒らないからとばかにされ、欲望を押し通されたり、軽んじられて支配されたり、あげくは当時付き合っていた男に、レイプまでされてしまったのだ。
村岡は自分の気弱なところや、自信がないことや、自己主張できないところが嫌いだった。
「征治は本当に頑張り屋さんだよ。あんまり、弱音も吐かないし。だからおれ、征治が『パパママくらぶ』に参加するのは大賛成だ。そこで、不安とか悩みとか吐き出して、聞いてもらったらいいよ。……ごめんな。おれも、なかなか聞いてやれなくて」
村岡はばっと天馬のほうを振り向いた。首をぷるぷると横に振る。
「了介さんは聞いてくれます。おれが話さないだけ」
「話すの、嫌か?」
「……あんまり、弱音を吐き慣れてないんです」
豊かに膨らんだお腹を撫でる。赤ちゃんが大きくなって、胎動は少なくなった。
天馬の顔を、きらきらした目で見つめた。
「おれ、『パパママくらぶ』、行ってみます。そこで、弱音を吐く練習して、自分と赤ちゃんに向きあいます」
それがいいよ、と天馬は微笑んだ。村岡も笑う。
車はパン屋の駐車場に停まった。
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