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第3話
「皆、逃げよ!魔物は、まだ生きている!」
兵の声に、緊張が走る。人々から歓喜の色が消え、混乱が沸き上がる。
逃げ惑うより民より速く、動く人影。
馬から飛び降り、獣の前に躍り出たのは、先人たちがなし得なかった、邪竜の喉を穿ち、その首を胴から引き剥がすという偉業を成し遂げた男。 聖剣の使い手、イリス。
「うおっと」
突然主を失い、狼狽える馬の手綱を取ったのは、並走していた槍士リカルドである。彼自身も馬に乗っているため、二頭の手綱を取ることになる。
「お前なあ、せめて言ってから行けよ!」
リカルドの声で、人々はイリスが馬上から消えたこと、獣の前にいることに注視する。
唸り声を上げる魔物は、正面に立つイリスを見据える。牙の形状、兵に押さえ込まれるまでの習性を鑑みるに、元は猪だろう。
邪竜の気に当てられ、ただの獣であったものたちが、狂暴化することは、珍しいことではない。しかし、それも、落ち着きをみせるだろう。元凶は、彼によって断たれたのだから。
聖剣の使い手と言われるイリスだが、今手にしている刃は、イリスが懇意にしている刀鍛冶が拵えたものである。聖剣は特殊な力を宿しており、イリスが念じない限りは、剣の形を取ることはない。不要な血を吸わせるべきではないという考えから、彼が聖剣を取ることは滅多にない。今聖剣は腕輪の形をとり、彼の傍らにある。
一直線にイリスを目掛け、突進する獣。このままでは、イリスごと、住居や店を薙ぎ倒すことになるだろう。人々は青ざめ、悲鳴が飛び交う。
しかし、実際はそうはならなかった。
一閃の後に、赤黒いものが吹き出した。獣は、どうっと音を立て、横向きに倒れた。目にも留まらぬ速さとは、正にこのこと。人々には、イリスが突然魔物の背後に移動し、刃に付いた獣の血を払う様しか認識できなかった。
唯一残ったのは、唇に付着した暗い赤。元々朱を掃いたように赤い唇がさらに彩られ、艶かしさを与えていた。
「流石、勇者様だ!」
民の声に勇者は我に返ったようで、その血を拭うといつもの穏やかな表情に戻った。邪竜討伐前と変わらぬ笑顔に、人々は安堵する。
「皆さん、もう大丈夫です。邪竜が倒れた今、皆が力を合わせれば、恐れることなどありません!」
「おお、イリス殿!」
聖剣を手にした後も、偉業を成し遂げた後も、イリスは驕ることなく、常に謙虚であり、皆に優しい。それでいて、魔物の前では誰よりも勇敢に戦う。
ああ、真の勇者とは、正にこの人のこと!
英雄への賛歌が鳴りやまない。
皆がイリスへ敬愛の眼差しを向ける中、一人険しい顔をする者がいた。
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