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第5話
イリスは元来穏やかな性格で、人を悪くいうことはない。人は彼を好青年というだろう。しかし、一点知られていないことがある。
それは、イリスは邪竜を討ち滅ぼした瞬間、燃え尽きてしまったということだ。
物理的にではない。精神が擦り切れてしまったのだ。そもそも、イリスは義憤に駆られて邪竜討伐を志したのではい。彼が立ち上がったのは、私怨から。復讐のためにその首を刎ねたに過ぎない。
いわば、復讐の炎が、彼の原動力だったのだ。その炎の燃えかすが、今の彼である。しかし、人々にはその事実はわからない。力の源を失った人間に、「まだ走れ」と人々は言い続けているのだ。
イリスは根が真面目である。それ故に、己の内が空洞であっても、人々を満たそうとしてしまう。人の幸せを嬉しく思う反面、彼の胸中は張り裂けそうだった。
この人達がいくら幸せになっても、姉さんは、帰ってこない。
この人達は幸せに生きられるのに、どうして姉さんは生け贄にならなくてはならなかった?
生け贄。
最近まで、この大陸に根付いていた風習。邪竜の怒りが鎮まらず、田畑を荒らし、作物の生育に影響が出た年に、その元に若い娘を差し出す。娘には、何かしらの条件があるということだが、イリスはよく知らない。わかっているのは、姉アイノが選ばれたということ、姉はその要請に応じたということ。
イリスが唯一知る生け贄の条件が、未婚であることだ。この時アイノには、縁談の話が来ており、話を進めていれば、対象から外れることもできたはずである。ただ、姉にはそれはできなかった。その事実にイリスは、胸が締め付けられそうになる。
病弱な母と育ち盛りの弟を抱える生活には、金がかかる。自分が生け贄になれば、都からまとまった金が支給される。
街で剣術指南を行っていた父の収入は、決して少ないものではなかったが、母の薬代の工面、弟に不自由な思いをさせたくないという思いから、承諾したのだろう。
イリスは姉の口から直接聞いたのではなく、父からそう聞かされた。母には、その事実は伝えられなかったという。その頃すでに容態が思わしくなく、真実を伝えようものなら、それだけで危険な状態になりかねなかったからだ。
父が姉に詫びる横で、病床の母が、娘にこう言ったのをイリスは聞いた。
「式に行けなくてごめんねぇ、幸せにおなり」
父の手向けの言葉。
母の餞の言葉。
どちらも嘘偽りない言葉だというのに、何と残酷な光景なのだろう。イリスはそう思いながらも、何も言うことはできなかった。幼かったからということもあるが、こんな状況下でかけるべき言葉などあるのだろうか。
姉は笑顔のまま表情を変えずに、父母に感謝していた後で、ただ押し黙るしかできなかった弟に、こう言い残した。
「父さんと母さんを頼むわね」
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