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第3話

 目が覚めるとセシールは病院に運ばれていた。腕が自由に動かないと思うと手を握られている。自身ものとは違う息遣いには時折(いびき)が混ざった。ディーノがベッドの脇で寝ていた。夢の中にも彼が出て来たような気がしたが、夢の内容をよく覚えていなかった。ただ長いこと彼といた錯覚を起こす。ベッドサイドテーブルにはスタッフからの雑な書置とチョコレートの箱があった。身動きをとるとディーノの手に力が入り、それから丸みを持った目蓋が持ち上がる。 「鰐嶋サン…?よかった!目、覚めたんですネ!」  ディーノは少し舌足らずに喋った。セシールの手を放すどころか蒸し殺すような熱い体温は力強くなる。その手以外は水底に沈む感覚に陥り夢の中を思い出す。沈んでいたのではなくむしろ、誰かの手を放して自分は浮いていたのかも知れない。セシールはぼんやりとディーノを見つめた。しかし誰の手を放したのか分からなかった。 「鰐嶋サン?どこか痛む?」  青みのある翠色の瞳に覗き込まれる。そして彼は首を捻る。その眼差しを知っている気がした。ディーノに会うよりも前から。思わず目を逸らしてしまう。 「スカイラインちゃんたちからチョコレートもらったんですヨ。エトワール=ストラール・チョコだって、美味しいやつ!」  非常に食べたそうで、セシールは書置の貼り付いた長細い箱を開けた。品良くチョコレートのブロックが並んでいる。ディーノに差し出すと宝石のような目が輝いた。 「やった!いただきます!」  年齢不相応な幼く野暮ったい手付きでチョコレートを摘む。有名な焼菓子のブランドで特にチョコレート芸術に力を入れている店だった。一般家庭が日常的な菓子として買うには値が張ったが、現状のディーノならたとえ毎食のデザートにしても差し障りない。 「美味しい!」  浅瀬とも深淵ともその中間もしくは両方を思わせる不思議な何とも云えない色を湛えた目は、その神秘的な雰囲気とは裏腹に軽薄な感じも持ちながら可憐に眇められた。 「スカイラインちゃん、ここのチョコレートのファンなんだって話してたんですヨ。やっぱ美味しいのを知ってるな。意外とお洒落さんなんだ」  エトワール=ストラール・チョコレートもアンジェロペッシェ伝説の話に(のっと)った商品展開をしていた。ロゴマークも若い男女がいやらしくない程度に口付け合うデザインになっている。この男女というのが冥海の帝王アンジェロペッシェに街を滅ぼされる元凶となった恋人たちらしかった。アンジェロペッシェはこの2人組の片方エトワールに惚れていたが、すでに恋人ストラールがいると知るやいなや(たちま)ち都を沈めたというのがエトワール=ストラール・チョコレート株式会社の商品開発の構想だった。スカイラインはアンジェロペッシェ伝説を毛嫌いしているようなことを言っていたが存外、伽話が好きなのかも知れない。 「あの…疲労って聞いたんですケド……ごめんなさいっす」  疲労を溜め込んだ覚えはなかった。チョコレートを食べた時のような笑みは途端に消え、旋毛(つむじ)が見えた。 「何故謝る?」 「だって…おでが上手くやれないから、何度も撮り直しになる…お酒酔っちゃって台本も書き直しになったって…ごめんなさいっす」 「誰かがそう言ったのか」  白けた銀髪は左右に揺れた。犬が水を払うような仕草にセシールの美しい無表情は和らいだ。 「君の所為じゃない」 「でも、」 「俺の自己管理の問題だ」  ディーノはまだ顔を上げなかった。旋毛ばかり眺めてしまう。 「素人にやらせることは分かっていた。撮り直しを想定していなくてどうする」  俯きながらも上を向く髪が跳ね、セシールは掌で硬さのある毛並みをなぞった。 「鰐嶋サン…」  涙ぐんだ目がゆっくり持ち上がる。ベッドサイドに置かれたオニオンクリームを右手に嵌めた。 『心配し過ぎなんだジョ~。この業界ではよくあることっちゃね』 「オニオンクリーム!」  ディーノはセシールの右手に飛び付いた。チョコレートを食べたがった時とはまた違う輝きが戻る。彼はオニオンクリームにじゃれつき、セシールは書置を読んだ。プロデューサー志望のディレクターを代理にし見合い相手5人の個別インタビューを先に撮ることにしたらしい。歓迎パーティーのシーンも収録済みのもので編集すれば事が足りるらしかった。 『見舞いに来てくれてありがとナス~』 「ううん、おでの所為みたいなもんなんだし」  オニオンクリームはセシールの膝の上に置かれたチョコレートの箱を摘んでディーノに渡した。 『お土産っス~』 「え、でも…鰐嶋サン」  遠慮がちに彼はメモ用紙を折り曲げて捨てるセシールを呼んだ。 「このチョコレート、オニオンクリームがくれるって言うんですケド、鰐嶋サンは…?」  セシールは妙な顔をしてしまう。 「…持っていけばいい」  箱を抱き締めて彼は喜んだ。本店だけでなく支店もいくつか繁華街にあり、スポンサーに入っている場合は差し入れとして届くためセシールにとって珍しいものでもなかったが、庶民的なこの資産家には特別なものなのだろう。 『溶ける前に食べるんだジョ~?』 「うん!大事に食べるネ!ありがと、鰐嶋サン」  オニオンクリームには華やかに笑いかけるが、セシールの目を見た途端少しずつ引いていく。まだ笑みは残ってはいるものの、遠慮が透けている。 「そろそろ戻ります、おで」  律儀にパイプ椅子を折り畳み、オニオンクリームの手、セシールの指と握手をするとディーノは病室を後にした。エイクレアの好んで使っていた香水がふわりと薫る。夢の内容をまた一欠片取り戻す。エイクレアと認識していながらも彼と断定できない、しかし亡き恋人によく似た人物と大波に呑まれる夢だった。相手は大怪我によって走れる状態ではなく、手を放そうとしていたがセシールは放せなかった。生まれ育った街は崩壊し、浮遊感と地に走る亀裂と、溢れ出す地水に逃げ場などなくなっていた。その夢を初めてみたのか、元々知っていたのか分からなかった。新鮮さもなく、どこかでこの話を聞いたことがあるような気もした。ただそれよりもセシールは空港で惜しみ手放した恋人な体温を思い出し、激しい後悔に苛まれる。膝を抱いて、声も出さず名を呼んだ。 「あ、鰐嶋サン!」  病院にそぐわない大声でスライディングしながらディーノが戻ってくる。セシールは不意打ちに驚いて肩を跳ねさせた。 「食べるものじゃないほうがいいかなって思ってたから、これ、作ったんです。お見舞い」  ピンク色の貝殻が付いたストラップを差し出した。台風のように戻ってきて風のように彼は去っていった。掌には自分で拾って穴を空け、市販の根付を嵌めたらしい品が置かれている。セシールは吹き出して笑った。趣味の悪い人形のストラップをエイクレアも土産としてよく買ってきた。 ◇  現場に戻るとディーノとアクアマリンが2人で浜辺を歩くシーンを撮っていた。5分ずつ見合い相手を替え、フリートークという(てい)で、実際は5分で足りるわけもなく何かしら録れ高があるまで続いた。おそらく放送されるのは5人で10分あるかないかだろう。空きのスタッフに勧められ別荘に戻る。次が出番のラグーンと今撮影をしているアクアマリンを除く3人がリビングのソファーにいた。アクアマリンにチョコレートの礼を言う。彼女は雑に返事をした。カスケードは態度こそ険があったが気遣いの言葉を投げ、その表情も素直ではないが心配が窺えた。シマウタはセシールの服を引っ張り、大きなソファーに座らせる。するとヘナタトゥーの施された指でセシールを差した。カスケードがシマウタの行動をフォローするように、無礼な仕草をやめさせた。 「(わえ)たちは、ただ輪廻転生(スクリュー)に呑まれているに過ぎない。何度目だ?」  シマウタはカスケードを無視し、セシールを真っ直ぐに見つめた。 「何度、(わえ)たちは付き合わされる?」 「ちょっと、何を言ってるのよ、シマウタ。サーディンPは病み上がりなんだから…」  不気味なことを喋り始めるシマウタにカスケードが割り込んだ。 「()の者の魂が探しているのはただひとつの魂。それは我主(わぬし)に他ならぬ」 「やめなよね、シマウタ。こんなところで宗教勧誘とかよくないよ」  スカイラインの穏和な顔に怒気が籠った。彼女はソファーで寛ぎすぎて横柄な態度でさえあった。円い目はまったく別な方向を射し、麗かな海のポスターを見つめていた。 「人は死んだら、解脱(オフショア)するまで輪廻(スクリュー)に呑まれてまた転生(オンショア)するんだってね…そんなのシマウタ、ホントに信じてるの?心から?」 「信じてる、信じてないの問題ではなく、そうなのですわ。それがこの世の生命の摂理(カレント)なのですわ」  突っ掛かる物言いにも気分を害した様子はなくシマウタは死んだ魚の深淵のような目でスカイラインを一瞥した。カスケードは眉を顰め、2人の動向に気を揉んでいた。 「じゃあ、あたしもあたしになる前は、あたしだケド、あたしじゃない何者かだったってワケ?」  シマウタはスカイラインの居るほうへ手を翳した。そうされた本人よりもカスケードが肝を潰す。気が強そうで陰険な雰囲気を持ちながら彼女は見合いという点に於いて競争相手にも関わらず他の者たちの関係によく気を回していた。 「スカイライン殿は…――の妹として、30万年もの間、転生(スクリュー)しているようですな」  シマウタの声に雑音が混じる。セシールは脳の奥から何か引き摺り出されるような酩酊感のような、頭痛というほどでもない疼きと耳の奥に入り込んでいく波の音に平衡感覚を失った。立ち眩みかけ、カスケードに支えられる。 「やめなさいよ、2人とも!サーディンPは病み上がりなんだから、子供みたいな真似して困らせないでよ」  カスケードによってセシールは他のスタッフがいる部屋に引っ張られる。体調不良はほんの一瞬だった。カスケードは次が収録の出番らしく、シマウタとスカイラインを2人きりにすることを心配した。しかしカスケードと入れ違いにスカイラインがセシールの元にやってきた。彼女はすまなそうに眉を下げ、溌剌とした印象とは反対にぶっきらぼうに謝った。暫く気拙げに無言を貫いていたが、室内にいたスタッフがカスケードとシマウタの化粧直しに向かい2人きりになると彼女は口を開いた。 「あたしさ、政治家になりたいんだよね。なんでもかんでも信仰とか思想任せにしてさ…」  兄にも話せない進路の相談を兄の恋人として、或いは義兄として認められ、妹からされた覚えがある。 「そのためにも名前を売る必要があるんだ。若い子、興味ないでしょ、政治。だからさ、この番組の話が来た時内心、やった!って思ったんだよね」  夢を語るその姿勢は少し萎縮している感じがあった。 「プロデューサーはさ、ちょっと矛盾した気持ちになったこと、ある?」  スカイラインの窺うような自信のなさそうな問いかけとともに玄関扉の鈴束が乱暴に鳴った。 「鰐嶋サン!」  別の部屋から大声が聞こえ、入ってきた人物がディーノだと知らせた。そしてセシールのいる部屋にけたたましい足音をたて飛び込んできた。 「カスケードちゃんから、ちょっと具合悪いかもって聞いたんですけど!」  セシールの座るソファーの前で巨万の富を引き継いだ青年は膝をついてその手を握った。 『ちょっと立ち眩んだだけだジョ~。問題ないンゴ』  彼は碧翠の瞳を彷徨わせ、隣のスカイラインと目を合わせると、互いに首を傾げた。 「ホント?」 『うん』  セットを崩さない程度に白みのある銀髪を撫でると彼は短い睫毛を伏せた。その仕草に覚えがある。しかし明確なものは何も分からなかった。 「鰐嶋サンのコトよろしくネ、スカイラインちゃん」  ディーノは隣のスカイラインにそう残してまた慌ただしく飛び出していった。 「ディーノさんが一番好きなのってプロデューサーかもね」 『それは無いジョ~』  台本でもまだ決まっていなかった。誰に決めるのかはディーノ任せで、それに沿って5人分の台本がある。そうこうしているうちにラグーンが戻ってきてスカイラインと入れ違いなった。セシールはラグーンを(ねぎら)い、撮影現場に戻った。アクアマリンはロングスカートが砂で汚れるのも構わず、ディーノとカスケードが並び歩くシーンを眺めていた。彼女はセシールに簡単な体調を案じるような挨拶をした。 「ディーノ様、結構慌てていたんですよ。自分が酔ってるのも忘れて」  社交界に出入りしているような上品さでアクアマリンはくすくすと笑ってセシールが倒れた時の話をした。 「プロデューサーさんのことが大好きみたいですね。スタッフさんも少し心配していました。このままだとプロデューサーさんルートに入っちゃうって」  彼女は楚々とした微笑みを浮かべる。 「勘弁してくれ…」 「わたしは、ディーノ様が一番良いと思った方とくっつくのが良いと思っていますから。とは言っても、やる気がないわけでは無いんですよ」  落ち着いた色の髪が潮風に揺れている。波の音と彼女の心地よい声が響き合う。代理のプロデューサーがカットをかける。そしてセシールたちはスタッフから声を掛けられ、別荘の中に戻るよう乞われた。撮影の邪魔にはならないはずだったが、どうやらセシールかアクアマリン、或いはその2人がいることでディーノの気が散っているらしかった。  2時間くらいしてこの日の撮影を終え、帰りの準備をしているとラグーンがディーノの様子がおかしいと伝えにやってきた。他のスタッフから促され片付けを抜け出しリビングに寄れば、ディーノはソファーの座面に寝ていた。カスケードに膝枕され、アクアマリンは水を飲ませていた。シマウタは背凭れの奥から扇子で風を送り、スカイラインは濡れたタオルで額や胸元を拭いていた。見合い相手の誰とも仲が良さそうで少し安心したが、彼女等はディーノを認めると一斉にディーノから離れた。スタッフたちもホテルまでの帰りのバスの支度が済んだと告げに来た。 「ご本命が来たみたいですから」  アクアマリンはくすくすと笑い、カスケードは少し苦々しいようなすまなそうな表情をして出て行った。 「これが一番フェアかなって」  スカイラインはセシールの腕を軽く叩いていった。 「先に失礼するが、頼むな」  ラグーンは快活に笑む。シマウタはセシールの前に留まり、そこからディーノへ首を曲げる。 「このアンジェロペッシェ計画によって選ばれた者は彼の(つが)いではなく、彼の番いを見守る者に過ぎないのですわ」  シマウタは不気味な上目遣いでセシールを見た。スカイラインに腕を引かれて連れ去られる。 「鰐嶋サンも……帰る時間ですよネ…?見送ります、ヨ…」  顔を赤くして汗を光らせるディーノは荒く息をしてソファーから立とうとした。足元がふらつき、セシールは支えた。彼は艶めいた息を吐く。その潤んだ目は清涼感のある淡いブルーの淡さを照らしながらも妙な粘っこさがあった。 「どうした?」 「太陽、浴びすぎちゃったみたいです…暑くなっちゃって…」  自分の手で顔を扇ぎながら彼は呑気に笑っている。汗をかいている額に掌を当てた。彼の身体がひくりと震えた。支えながらソファーに座らせる。胸元はすでに開き、鍛えらた胸板が覗く。ジャケットを脱がせ、水を飲ませた。 「鰐嶋サン…」  濡れたタオルで浮かぶ汗を拭いた。彼はくすぐったがる。酔った時よりも苦しさはなさそうだが酩酊している感じがあった。 「また酒か何か飲んだのか」 「甘いやつ…美味しいやつ、飲んでくださいって…」  甘えるような声音でディーノは辿々しく喋った。汗を拭く手を握り込まれる。 「確認してくる。少し待っていてくれ」  汗ばんだ手はまだセシールを放さない。強めに引いてみてもディーノの手が付いてきた。 「ヘリング」 「おでも、一緒がいいです」  気怠そうに立ち上がり、しかし上手く立てずセシールに撓垂(しなだ)れる。水没した時の夢の感覚が弾ける気泡のようにセシールを襲った。気付かぬうちにエイクレアの名を囁いていた。 「おで…鰐嶋サン…」  胸の中に収めたディーノが暴れ、セシールはソファーに倒される。 「なんか、変…おで、ダメだ…なんか…変だ…」  犬のように鼻を鳴らしディーノはセシールの首元や胸元の匂いを嗅いだり、頬や髪を擦り付ける。 「とりあえず離れろ…!」 「鰐嶋サン、おで…離れらんない…離れらんないヨ、鰐嶋サン…」  腹や胸に()し掛かる汗ばんだ肉体から熱が伝わり、セシールの身体も熱くなる。泣くような助けを求める声が降り、簡単に突き放せなくなってしまう。 「鰐嶋サン…」  斜めにある部屋からやって来たスタッフがリビングを覗いた。セシールは助けを求め、事情を訊ねた。一体何を飲ませたのか代理のプロデューサーを呼ばせた。ディーノは相変わらずセシールから離れず、しがみつき、匂いを嗅ぎながら自らの身体を擦り寄せていた。代理のプロデューサーは、ディーノを気にしながらも、彼に承諾をとった上で惚れ薬を飲ませたこと説明した。その惚れ薬というのが催淫剤を希釈したもので、見合い相手に対する積極性を期待したとのことだった。しかしその効果はほぼ感じられなかったという。 「鰐嶋サン…」  汗ばんだ肉感がセシールの両頬を押さえ、スタッフとばかり話す唇を柔らかく塞いだ。久々の蕩ける感触に意識まで水の奥底へ沈没しそうになる。エイクレア以外との口付けをセシールは知らなかったが、帰らぬ恋人と紛うほどその質感と弾力はよく似ていた。 「放せ」  顔を逸らすとディーノはセシールの首筋を嗅ぎ甘く噛み、吸った。押しても引いても剥がれないため、スタッフとそのまま話し、彼等を先に帰すことにした。玄関から届く帰宅の挨拶と鈴の音にセシールはひとつひとつ返事をした。ディーノはセシールの肌という肌に接吻する。唇でスタンプされるようなあどけなさがある。 「鰐嶋サン…おで、変なの。鰐嶋サン…おで、病気かな?」 『変じゃないジョ~。落ち着いて、まずはシャワーでも浴びるといいゾ~』  白銀の髪はふるふると左右に揺れる。 「おで、鰐嶋サンのコト、放せない」  (しお)らしい顔をしてわずかにディーノは首を竦めた。身動きをとると飼主によく懐いた大型犬と化す青年の下腹部にある膨らみにぶつかる。生々しい発情が眼前にあった。しかしセシールは相手が死んでいるにせよ、エイクレアに操を立てたつもりだった。自涜以外に情欲を解放することは出来ない。たとえ遊びであろうと。 「放せ。俺には心に決めた人がいるから、…」  視界が揺れる。耳の中に水が入っていくような音と、全身を水面に打ち付けるような感じがあった。ふと目の前の男が恋人に見えはじめる。姿こそ違うが、まるで爆誕した生まれ変わりか、憑依したもののように。生写しだ。 「君は、エイクレアなのか?」  自分でも何を言い出しているのか分からなかった。信心深いアクアマリンや狂信的なシマウタの話に()てられたに違いなかった。妖しく光る緑碧の双眸は憂いを帯びながら伏せられる。常日頃は快活な恋人が戸惑った時そういう態度をとることがある。半分疑った。しかしエイクレアではないと答えられても(わだかま)りが残る。それくらいにひとつひとつ些細な仕草までよく似ている。 「いや、待て。エイクレアはもう…」  独言(ひとりごち)てセシールは彼から顔を背けた。しかし背中を熱が包み込む。エイクレアかも知れないと思い始めると、強く拒絶出来なくなってしまう。 「鰐嶋サンに、触って欲しい…」  強い力がセシールから思考もこだわりをも奪った。薙ぎ払うように振り返り、ソファーに倒れるディーノの顎を掴んで口付ける。最初は怯えた反応を示し身を竦めたがやがて彼は自ら求めるようにセシールに縋り付く。距離を無くし口付けは深くなっていく。思考はさらにぼやけていく。永いこと待っていたじわりと微かながらも確かに染み入っていく快感と甘さにセシールは胸が締め付けられた。 「ん…っぁ、」  鼻腔をくすぐる恋人の芳香に煽られた。どちらからともなく手が合わさり、指が絡む。固く繋がれ、セシールからも力強く握り締めた。手の甲に減り込む彼の指と爪にも情欲を(そそ)られる。肉体で繋がる兆しのようだった。絡まる舌を淫靡に(とろ)んだ熱い口腔から抜いた。唾液の糸が2人を離さない。潤んだ不思議な色合いの瞳は悩ましく細まり、不安げに眉を寄せ、見つめ合いながら彼は喉の隆起を動かし、2人の蜜を嚥下した。 「おで……変になっちゃった…」  舌ったらずにディーノはセシールを潤んだ目で見つめたまま首筋を晒し、無防備な体勢をとる。まだ繋いだ手は放せなかった。もう一度その身体に沈んだ。片腕で汗ばんだ胸板や腹を摩り、衣服を開く。日に焼けた肌はひとつひとつセシールの指に反応した。

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