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第4話

 潮風に吹かれ汗をかいた肌は塩映(しおはゆ)かった。唇で愛撫し、燻る箇所へ向かっていった。ディーノは口元を押さえて吐息が漏れるのも我慢していた。見上げると人懐こい目がセシールを見ていた。薄い目蓋が飴玉を呑んだように膨らみ、重そうに開閉した。恥じらう姿に轟く血流が下腹部に集まっていく。 「鰐嶋サン…っ」  スラックスの前を開いて下半身を露出させると彼は狼狽した。飛び出す性器はすでに湿り、爆ぜそうになっていた。先端を数度啄んで口の中に迎えた。 「鰐嶋サ…っ!んぁッ」  快感にぼんやりしていたディーノは目を見開いて暴れ出す。セシールは根元を掴んみ視線で制した。恋人が悦んでいた舌遣いでディーノの性器を追い詰める。口腔すべてを使った性技にディーノの初々しい肉体は瞬く間に迸る。自然な苦味のある粘液が舌の上、喉奥に飛んだ。 「あっ!あっあ…ごめんなさ…っ」  言葉に反し、ディーノの腰は揺らめいてセシールの喉を突いた。残滓まで舐め取る。恋人のものしか知らないが、同じ味と匂いがした。たびたび行為には及んでいたためにディーノのほうが濃く、量も多かった。彼の深海と浅瀬が両存している瞳を捉えたまま喉に引っ掛かる体液を何度かに分けて飲む。ディーノは顔を真っ赤にしてセシールへ身を投げる。まだ火照っている身体は一度の絶頂では物足りないらしかった。 「鰐嶋サン…おで…」  涙ぐんだ目が誘うように瞬いた。初めての時、エイクレアがしたようにセシールはディーノの額や目元にキスを落とした。しがみつく体躯から緊張が伝わる。ソファーに寝かせ、脚を開かせた。まるで操られたようにセシールはディーノの内部を暴きにかかる。彼が恋人か否か、そのようなことなど忘れて。彼は恥ずかしがったり躊躇ったりしたが迫ると断らず、そのまま挿入寸前まで事が進んでいた。硬く張った雄を慣らした窄まりに当てる。腰を押し出せばひくひくと収縮する蕾の中に入れてしまいそうだった。液体のようになってしまったディーノは髪を乱し、普段の幼さを放り出し、年頃の色香を醸していた。水膜に白ずむ眼球にも悦楽の影がかかっている。投げられた手を握り、指に口付ける。 「――…っ!」  ディーノは妖艶な瞳でセシールを射抜いた。蜂蜜を塗ったような唇が動く。何者かの名を呼んだのだけはその短さから理解した。しかし後頭部を鈍器で力任せに打擲(ちょうちゃく)されたような衝撃に視界は真っ白になりセシールはディーノの腹の中に入ることができなかった。閃きに似た強大な印象はみるみる劣情を削ぎ、不安と焦燥を置いていった。自身を疑った。自身の性的嗜好を。何故生身の人間に発情しているのか分からなかった。エイクレアであっても、この青年は必ずしもエイクレアではなかった。 「鰐嶋サン…?」  セシールは目を逸らした。彼の上から退く。ソファーに座り直した。ディーノは戸惑って、開き放しの脚を閉じた。遣る瀬無くなりテーブルの上のタオルを渡した。 「トイレに行ってくれ」  傍に居る青年が急に得体の知れないもののように思えた。今まで認識していた彼とは違うもののように思えてならない。夢で見た人懐こい犬のようで、人でないものと重なる。それが人でないものということだけははっきり分かっていたが、犬だったのか、猫だったのか、鳥だったのか蛇だったのか、それは曖昧で思い出せなかった。夢が現実にまでやってきてソファーで戸惑う青年を人の形をし人語を解しながらも人でないものに思わせた。まるで捨てた犬猫が人になって報復しに来たような。 「おで…やってもらってばっかで、ごめん…」  ディーノは起き上がると(うずくま)るセシールの膝の間へ潜ろうとする。 「いい…すまなかった。忘れてくれ」  抓るような雑な手付きで彼を突き離す。紺碧とライトブルーの眼がさらに潤む。 「どうかしていた。君は見合い相手を選んで、これから結婚生活が待っているんだ。すまなかった。許して欲しい。せめて撮影期間だけは、変わらず接してくれるとありがたい」  まだ縋り付こうとするディーノの服を整えていく。彼は首を伸ばした。セシールは顔を背けて口付けを躱す。 「鰐嶋サ、」 「駄目だ。こんなのは…」  ディーノはそれでも甘える猫の如くセシールの唇を求めた。セシールもセシールで彼を人懐こいペットのように扱った。他意のない手付きで背中に腕を回す。胸元が重なった。身体の底から泡になっていくような浮遊感と曖昧な感覚に陥る。 「や…だ…」  宥めてから離そうとするがディーノは(とぐろ)を巻く蛇のようにセシールに纏わり付いた。また新たな霊感に打たれる。白い生き物に抱き竦められた記憶があった。長い首が胴や首を回り、どこにも帰さないといった執着を窺わせた思い出。熱かったはずの彼の身体は冷たくなりセシールの肉体を添木にした蛹のように固まった。このまま羽化しかねない。その羽化した姿をセシールは蝶でも蜻蛉でも蝉でもなく、真っ白な竜として思い描いた。 「やめてくれ。放せ。君とはいい関係でいたい」  ソファーへ突き飛ばす。様々なスタッフ調整が頭に浮かんだ。プロデューサーを降りなければこの番組は仕上がらないとさえ考えた。出演者とスタッフの色恋沙汰を今まで目にしなかったわけではない。だが上手くやっていた。だがセシールにはそう出来る自信はなかった。あの青年の往なし方を知らない。下腹部では治まりもせず昂ることもない熱が行き場もなく留まっていた。  ホテルに戻り、コンピューターを起動する。男が大蛇と交合(まぐわ)うポルノビデオを見ながら(たぎ)りを処理するのが日課だった。エイクレアでなければ昔から人間の肉体にも関心が持てず、かといって動物を飼い愛でるだけでなく性処理に使うなどということに根深い禁忌を覚えている。そうなるとポルノビデオの大海から、動物を異種間として愛でながらも同じく生きるものとして交わる動画を探しては、飽くまでも他人事として消費していた。特に大蛇の穴に性器を挿入する男の姿に、或いは挿入されている大蛇に、もしかすると異種間で繋がるその光景に惹かれた。周りと違う自覚はあった。それは生身の人間に性を抱けなかったことにではなく、周囲の人間の発情期の多さに対してだった。しかし周りの人々との違いを気に留め、悩んだりすることもなかった。多少の体質の違い、環境の違いだと片付けていた。元々口数が少なかったため、相談したことはなく、そうする必要性も感じられなかった。エイクレアに情を寄せるようになってからは、自分にもそういう面があるのだと他人事のように思い、想い人を見るたび起こる発情の頻度に多少の戸惑いはあったものの相手の寛容な態度に甘え、すんなりと受け入れることができた。誰を好きになる、何を好きになる、やはりあまり関心がなかった。だがディーノとのほんの短時間の情交で分かってしまった。白く長い首を持つ生き物に巻き付かれた記憶がすべてを物語っているような気がした。画面の中で男は飼っている大蛇を掴み、腰を揺らす。以前まではその結合部に様々な感触を馳せたものだったが、今日は苦々しい思いがした。特に熱くなるシーンの前で飛ばした。何分にどのようなシーンがあるかはもう把握しているほど鑑賞したが、今日ばかりは観ていられなかった。ブラウザを閉じ、ディスプレイが四角く暗いホテルの一室の中で光っていた。煮凝(にこご)ったに等しい下腹部の違和感はどうにも気になったが気分になれず、手を動かすのももう面倒になり、肉体と気分の乖離から目を逸らす。身投げよろしくベッドに寝転び、手に当たった布を引っ張ると身を包まって目を閉じた。  全身が波に、水になったような気がした。風になって揺蕩っているような気もした。背中が汗ばんでいる感じはあるものの四肢はすべて感覚を失い、だというのに途切れ途切れに形のない、微妙な弾力に(くす)ぐられ揉まれている。恋人の落ちていった海になれたような気がして幸福感に浸る。恋人でない者も数多沈んでいるが、恋人が含まれているのなら微塵もこだわる点ではなかった。彼は魂の輪廻(スクリュー)に呑まれおそらく潮風になった。仄かな甘みを帯びた柑橘類とわずかにスパイシーな清涼感が混ざった匂いに吹かれる。不思議な夢だった。白い生き物と交わり、それがエイクレアだと思った。彼とは気分次第で抱かれ、抱くような生活をしていた。今回は抱いている。エイクレアは潮風になり、白い竜になったのだと思った。浅瀬に浮かぶ眩しいほどの白い体表に、ヒトの生殖器に似た形状のクラスパーが揺らめいていた。その下に切れ込みのような器官があった。セシールはその裂け目に猛ったヒトの生殖器を挿していた。きつくうねり、絞られる内部の動きに夢中になった。ヒトの大多数のオスが持つ性器に形状は似ているものの、長く淡い色味をし、二股に分かれたクラスパーはセシールの腹の間でぷるり、ぷるりと忙しなく振られた。たとえ姿形が変わろうともエイクレアならば激しい慕情が湧き起こる。大蛇ともサメともシャチともいえない白い生き物を力強く抱擁し、快感を貪った。同時に、繋がりは解けないくせ腰を引く一瞬一瞬すら惜しかった。届く限りのいたるところに口付ける。海の中にいたらしいその生き物の体は塩映(しおはゆ)かった。ヒトだった頃のエイクレアの胸板へ滴り落ちていった汗露を舐めているようで官能を煽られた。速まる抽送に白い生き物も応えるようにセシールの生殖器を引き絞った。 「エイクレア…!」  射精欲が急激に高まった。白い体の主も心地良くガーゼケットのような鰭を追い詰められている彼の背に置いた。放精の直前でセシールは目を覚ます。自身のものとは質から違う嬌声が耳に届く。 「んっあっァッあっ!」  見慣れたホテルのベッドに自分以外の人間が寝ていた。シーツを掴み、中途半端に服を着ていた。浅黒い胸元は汗で濡れ、ベッドは乱れていた。潤んだ水碧の双眸が艶然と窺うようにセシールを見上げたが、精を放つことは止められなかった。腕は制御を失う。相手が誰なのか判断していたか否かさえ怪しかったが目の前の肉体を掻き抱いて交接を深め、組み敷かれた者の腕と脚もセシールに絡み付き中断を許さなかった。熱い内部に扱かれながらセシールは震え、種を噴く。蠕動(ぜんどう)してしまうのも許されないくらい下から伸びる四肢に固められている。汗が落ちた。詰めた息が漏れる。 「ん…っ鰐嶋サ……っぁ、」  結合を解くと澄んだ瞳が細まり、眉を切なげに歪めた。ぼやけた意識が冴えていく。同衾(どうきん)した覚えはなかった。蕩けた表情でディーノはセシールの肩を引いて唇に健気なキスをした。 「何故…」  セシールは口を開いたがすべてを訊けずに喋るのをやめた。何を言っても言い訳がましくなり、セシールは頭を抱えた。撮影中の番組のキャストと一線越えてしまった。目にしたくはなかったが、確認のため犯した相手を観察する。昨晩と同じ服装だったが見る影もないほどに着崩され、肩まで引き摺り落ちたシャツはボタンが飛び、胸元を晒していた。 「とりあえず、シャワーを浴びてこい」  シャワー室のあるほうを指す。吐き出した白濁が大胆に開いた秘部から溢れシーツの山脈に流れる様が目に入り、顔を逸らした。 「鰐嶋サン…」 「すまなかった」  謝るのがやっとだった。寝る前には確かに着ていたはずの服を拾い、ホテルの洗濯ボックスに突っ込んだ。 「鰐嶋サン…その、」 「謝って済むことでないのは重々承知だが、すまなかった」  まだ現実に戻れていなかった。見合い相手を選び結婚直前という相手に手を出したことも、彼に恋人を馳せたことも、意識のないうちに乱暴を働いていたことも、すべてが現実に戻れずセシールのほうでも戻ることを拒んでいた。夢の延長であるなら良かった。エイクレアへの裏切りに等しく、これから人生の転機となる儀礼を控えた者に対する侮辱だ。 「鰐嶋サ…」 「本当に申し訳なく思う」  適当に服を着てセシールは部屋から出た。出演者を強姦してしまった以上、撮影に関われない。このまま代理のプロデューサーに引き継がせ、自身は製作から降りようと考えた。ホテルの廊下の端にあるラウンジのソファーに座っていると少し離れた部屋に泊まっているカスケードが衣装で着せられがちな華美で露出の激しいものとは反対に落ち着きながらも優美さのある服で現れた。彼女はセシールに気付くと爪先の向きを変え傍にやって来た。 「おはようございます」 『おハロはろ~!ご機嫌麗しぅ~』 「随分疲れていらっしゃるんですのね、サーディンP?」  首が据えていられず背凭れに後頭部を預け、ひどく不躾な姿勢でセシールはカスケードを見上げた。吊り気味な彼女の大きな目と目が合うと、揶揄しているらしき冷ややかな眼差しが改まる。 「コーヒーでも持ってきて差し上げます」  セシールは返事もできず、ソファーの面するフィックス窓の奥に広がる青い海を眺めた。ヒトの肉体から放たれた恋人と身体を重ねる夢は幸福に満ちていたが、現実に戻るとエイクレアは居ないのだと知るだけでなく他者を傷付けていた。エイクレアに確かに似ているが、しかしエイクレアではないのだ。エイクレアのはずがない。彼は資産家に保護などされていなかった。彼は5人も配偶者の候補などいなかった。空と海の境界をなぞる。図々しく横たわるこの海に恋人は喰われた。原因不明の事故により。海竜ティノスに喰われたと。 「サーディンP?まさか二日酔いなんですか」  非難めいた調子でカスケードは小規模なテーブルの上にコーヒーを置いた。荒んだ目を彼女に送ってしまう。 『すまないノ~。ありがとナス』  彼女は隣のソファーに座った。 「昨晩、聞いたんです、シマウタから」  カスケードは少し周りを警戒した。少し離れた場所に人は疎らにいたが、ラウンジの近くには他に誰も居なかった。海にしか関心を示さなかったセシールは徐ろに据えるのがどうにも重労働な首を彼女へ曲げた。 「わたくしたち、別にディーノさんの妻になるわけではなくて、その役割はディーノさんの保護者になることなんですってね。本当なのかしら」  撮影中は喧嘩っ早い溌剌とした遊び人であるために淑やかな態度が新鮮だった。 「スカイラインは真に受けなくていいと言っているんですけれどもね、多分スカイラインも同じことを思っていたと思うんです。何故だが…わたくしたち、あの人のことを…要するに、サーディンPには敵わないということです。むしろ…わたくしたち、きっとあの人がサーディンPにお会いできたことを、喜んでいる気がするんです。上手く言えませんけれど…」 「ヘリング氏を未来の夫として見られないか」  カスケードも海を見ていた。美しい横顔は水平線を睨み、躊躇しながらも頷いた。 「夢を見ましてね。どうせ不毛な話ですけれども!」  彼女の朗らかな口調が威嚇に変わる。セシールは無言のまま、話を促す意を込めて頷いた。 「サーディンPにはご兄弟、いらっしゃるんですか」 「姉がいたらしい」  何も考えず、具体的な情報も出てこないままセシールはそう口走っていた。家族のことを思い出そうとして突然靄がかかる。父と母と姉がいるはずだ。どういった顔をしていか、遅れて脳裏に現れる。妙な言い方にカスケードは眉を顰めたが、彼女は話を続けた。 「わたくし、弟はいないはずなのですけれど、弟を呼ぶんです。その弟が、何か恐ろしいものに誘拐されそうで…サーディンPに少し似ていたものですから、少し心配したんですのよ…ああ!心配だなんて、そんな大袈裟なつもりではなくて!何か良からぬことが起こるんじゃないかと、ただ単に…」 「いいや、ありがとう」  良からぬことならばもう起きていた。セシールは彼女と同じく水平線をあてもなく眺める。これからの身の振り方を考えるつもりが、丸投げすることで彼女たちに対する罪悪感が芽生えてしまう。 「スカイラインのエトワール=ストラールの話を聞き過ぎたみたいです!本当に不毛な話!ごめんなさいね!」  顔を赤らめ、カスケードはばつが悪そうで怒ってさえいた。それは他者に向けたものではないようだった。夢を不安がる幼い子供のような振る舞いを恥じている感じが十分伝わった。ディーノとはまた方向性が違うが(はた)からみれば彼女も素直な気性といえた。 「サーディンPと別れたあと、またシマウタと喧嘩したんですのよ、スカイライン。あの子、シマウタの話嫌いでしょう?アクアマリンもシマウタの肩を持つものですから…ラグーンさんが仲裁に入ってくれましたけれど!」  セシールはコーヒーを一口飲んだ。後ろから足音がした。 「ストラールがルミエールで、エトワールは――だったか?」  はきはきした少し低さがあり掠れ気味の声がした。ラグーンだった。彼女は暑がりで衣装も私服も露出が激しく、朝から肩と腹を出す服を着ていた。セシールは振り返る前に貧血に似た浮遊感を味わい、口の中のコーヒーの苦味も香りも消えてしまう。スカイラインも案外子供だな。ラグーンの声が遠く感じる。カスケードはスカイラインを擁護することを言っているようだったが耳に入り込む水音によって単語でしか聞き取れなかった。そのまま水のない地上で溺れそうになる。 「鰐嶋サン!ここにいた!」  背凭れごと胸元から抱き竦められ、やっと訳の分からない不覚の海から引き上げられる。カスケードとラグーンに顔を覗き込まれていた。カスケードのほうはまた別の恥じらいに頬を染め、セシールとその後ろにいる人物を交互に見遣る。 「鰐嶋サン」  ラグーンがカスケードの肩を掴んでロビーのほうへ連れていった。ディーノは2人の見合い相手の後姿を見送ってから隣に座った。訴訟の話が来るのかと思い身構える。訴訟されて当然のことをしてしまった。しかし本当に自分の意思ではなかった。 「鰐嶋サン」  髪は乱れ、服も着替えず、乱闘騒ぎか何かの帰りと言われても納得のいく風貌は清々しい朝のホテルに似つかわしくなかった。 「怒ってる?」 「昨日の夜、あの後、追ってきたのか」 「うん…だって鰐嶋サン、怒ってた」  ホテルに戻ってベッドに入ったのは覚えている。その時は1人だったはずだ。 「ごめんなさいっす、鰐嶋サン…昨日、しつこくして…ホント、すごくドキドキしちゃって、1人になりたくなくて、ごめん。いっぱいしてくれたのに、おで、やってもらってばっかで、鰐嶋サンが怒っても仕方ないと思うケド、このままじゃ、ヤだから…」  やはり話が通じていなかった。セシールはふたたび頭を抱えた。どうしていいか分からない。 「昨日の君の妙な行動は薬のせいだから、気にしなくていい」 「でも…」 「むしろ得体の知れないものを飲ませて悪かった」  乱れた銀髪が左右に勢いよく揺れる。コーヒーカップを置く手を取られる。水のないはずの地上でまた溺れかけ、ディーノの人懐こく熱い手を払い退ける。彼はショックを受けたようだったが苦々しく笑った。 「鰐嶋サ…おで、嬉しかったです…鰐嶋サンのコト、カラダだけでも気持ち良くできて…すっごく…」 「すまない。本当に許されないことをした」  返せる言葉は決まっていた。そして無意識で不本意だったその行いを詫びるたび、恋人への罪悪感を募らせる。かといって弁解や否認も自身のプライドが赦さなかった。若くして資産家になった青年の肉体を犯し燃え滾っていたのもまた否定したくて仕方のない事実だった。 「謝らないで…ください。なんだか、悲しいです。もう変なキモチ、治まったのに…鰐嶋サンのコト考えるとまだドキドキしてるの」 「見合い相手のことだけ考えてくれ。俺のことなんて考えなくていい。怒ってなどいない。君は何も悪くない。シャワーを浴びて帰るといい。俺は暫く戻らないから」  コーヒーカップを持ってセシールはソファーを立った。もうディーノは追ってこなかった。ホテルが有するビーチに出てガラス越しではない水平線を望む。翠緑を帯びた淡い色味が徐々に薄れ、単調な青が横に一線引かれている。その真上には何トーンも濃さを落として白ずむ青が横臥(おうが)する。あの境界にエイクレアが居るのだと信じた。暫くは砂浜に座っていたが、やがて立ち上がると尻を払うことも忘れて海に近付いた。浮体(ブイ)の連なる縄など見えず水平線に向かって歩く。エイクレアの亡骸を拾いたい。遺品だけでもいい。見れば分かるはずだ。漠然とした確信を持って水は腰にまで浸かる。しかし遊泳に適していない服を引っ張られてしまう。 「ティノスのエサになるよ」  振り返る。エイクレアと彼の妹が水着姿でセシールを見ていた。そこに泊まっていたホテルはない。 「プロデューサー?正気?」  しかし一瞬の幻だった。エイクレアも彼の妹もそこにはいない。そしてホテルは聳え立っていた。目の前にはずぶ濡れになってセシールのシャツを掴んでいる彼の妹レーゲンがいた。しかし共に()えたはずだった。頬を打たれ、やっと彼女がスカイラインだと分かった。

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