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第5話

◇  スタッフたちには何も言えず、代理のプロデューサーの後ろで撮影風景を眺めていた。ディーノは一皮剥け、撮りたいものが撮れている感じがあった。躊躇いや気遣いを失くし、見合い相手たちに触れたり話しかける様も自然な演技で、本当にそういう人物がいるような心地がした。ただやはり撮り終えたものたちと比べると劇的な変化で台本の色を濃くしている感じがあった。しかし代理のプロデューサーも何も言わず、セシールからも言うことはなかった。編集で違和感が大きければ撮影に慣れてきたと説明するようなナレーションが入るのだろう。  市井(しせい)の軟派な若者といった感じに変貌したディーノと肩を組まれるアクアマリンの姿を見ながら席を外した。すると控えていたスカイラインが後を追ってきて縦長の箱を押し付けた。エトワール=ストラール・チョコレートで、彼女は拗ねたような態度で「あげる」と言って戻っていった。折り合いの悪いシマウタとまたトラブルを起こしたらしかった。彼女が戻っていく先に佇むラグーンもセシールに気付き、困った様子で眉を下げた。セシールは溜息を吐いて彼女たちの輪の中に入っていった。 『これは返すジョ~』  スカイラインはまだ名残惜しそうにセシールの手の中の箱を見ていたが、顔を逸らしてしまう。カスケードが彼女を宥めた。 「それなら私がもらってしまうぞ」  ラグーンは苦笑しながらセシールにすまなそうな顔をした。綺麗に塗られた長い爪に飾られたしなやかな手へチョコレートの箱を渡す。 『何があったか謎な~ゾ!何があった~?』 「また例の、エトワールがストラールで、ストラールがナントカールだって話だよ」  ラグーンはセシールの耳元に口を寄せた。シマウタは波打ち際でシーグラスや貝殻を拾い、スカイラインは膝を抱えてカスケードの言葉にも耳を貸さずに(うずくま)っていた。 「悪いな。それより鰐嶋プロデューサーは大丈夫なのか?また発作みたいなのが出たって…スカイラインから聞いたぞ。まぁ、その本人がアンタに苦労かけちゃ世話ないがな」 『まったく何もないゾ~!もう元気ッキ!』  セシールはラグーンからシマウタのもとへ移動した。シマウタはセシールが声を掛けるより先に彼の前に立った。 「仲良くしろとは言わないが、喧嘩を売るような真似をされると困る」 「目を背けるな、ステッラ!」  シマウタが声を荒げた途端、大きな漣が押し寄せ、セシールの足元まで濡らしていった。地表を滑る波は少し離れているラグーンたちのほうまで伸びる。遠雷が轟き、空は暗くなる。バケツをひっくり返したといっても過言ではない急激な雨が降り始め、稲光りが視界を一瞬白く塗り潰す。砂浜に(おびただ)しい雨跡が付いていく。 「吾等(わえら)我主(わぬし)を導くために在るのですわ」  雷鳴が近付いてきている。セシールはシマウタから目を離せなかった。 「あと何千回、吾等(わえら)は生まれ変わればいい?」  セシールは後退っていた。シマウタは距離を詰めたりはしなかったが強く責問する眼差しを向けていた。 「ステッラ、我主(わぬし)はティノスの呪縛から逃れられないのですわ。そして(わえ)等もまた、我主の呪縛と共に輪廻(スクリュー)する…」  シマウタは撮影現場を指す。 「アンジェロペッシェには逆らえぬのですわ。ティノスもそれを知らんのです。ティノスはステッラ、我主を求め、吾等は我主に解脱(オフショア)を求める。我主の好い人も我主に(いざな)われ転生(オンショア)することもない。ステッラよ、今生(サイドショア)でアンジェロペッシェに従え。ティノスの(つが)いとなれ。()すれば輪廻(スクリュー)は断たれる」  雨水が2人を打った。海が唸っている。シマウタはセシールへ軽蔑を隠さず、荒々しくなった海原を向いた。 「アンジェロペッシェが滅し、ティノスが守った街はあそこに沈んでいる。思い出せ、ステッラ。我主を愛し我主もまた愛した家族を。生まれ育った故郷を。ルミエールと過ごした日々を。コエラカントスを思い出せ」  生きた波が呆気にとられたセシールを拐う。そのほんの短かな時間の出来事にシマウタは目を見開く。  夢とは違う実際の沈没は全身が水に溶けたようだった。手もなく足もなく、耳には微かなノイズと閉塞感があった。口から吐いた気泡が消えていく。目は閉じていたが不思議と己を取り巻く光景が目蓋の裏に広がっていた。暗い中に白いものが渦巻いている。雷光が時折助け、それは海蛇か、もしくは巨大なペンギンか、やたらに首の長いシロクマであることが窺えた。首は細く長く、胴体に丸みがあり、布切れのような翼は大きな鰭らしかった。セシールの周りで螺旋を描く。小さな頭を寄せ、頬を擦る。硬さは分からなかった。人語を解さない生き物だったがセシールの頭の中には人語として落とし込まれていった。昔から。太古から。何度も何度も好意を告げ、そのたびに心に決めた者しか好けず拒み続けていた。ルミエールが、エイクレアが、彼だけが好きだった。彼でないならヒトを好けない。かといってヒトでない生物と情愛を持って過ごす動画の中の番いのようにもなれない。  白い怪物はセシールの首を噛んだ。喰われる、殺されると思うよりもまず先に、連れて行かれると思った。エイクレアの沈んだ海へ。ルミエールと共に滅んだ故郷コエラカントスへ。  環状の港湾都市コエラカントスの市街地の外れでステッラは産まれた。幼馴染のルミエールが軍人に志願し長い兵役に就いてからは彼の妹であるレーゲンの兄代わりとなって姉のワーテルヴァルとルミエールの妹を過ごしたものだった。家族仲は良く、ステッラとワーテルヴァルの父母もまたレーゲンを実の娘のように可愛がり、両親を早くに亡くし兄も不在の彼女を養子として引き取ろうとしたくらいだった。  試験を終え本格的な軍務に就くことになったルミエールが帰ってきた時はステッラの家でパーティーを開いたものだった。その後にまた2人で小さな会を催した。彼はまた長期間軍部に戻るため、ステッラは仄かな恋心を伝えることはしなかった。ルミエールのほうでも街で見かけた女性についてよく語り、ステッラの姉を褒めては己の妹の今後を冗談めかして嘆いていた。彼はコエラカントスの軍事力に憧れただけでなく、親無し児のレーゲンに一定の立場を持たせたかったため軍に志願したらしかった。レーゲンのほうでも親無しの兄妹を囲い育てるこの国に恩を返したいと勉学に励み、将来は役人になるのだと時折話していた。ステッラといえば学生で、時間の空いた日は配管技能士の助手のようなことをしていた。  コエラカントスの街中にはあらゆる場所に像が建っていた。真珠に似た虹色の光沢で塗装された白い竜の像はこの都市を守り神ティノスで、牙や爪を思わせる鋭さを持った骨が突き出た翼が特徴的だった。よく触られているためかそこだけパール塗装が剥げている。観光にやって来る者はここに花を置いたりしていった。ステッラはコエラカントスを8つに分け都市の外へ伸びる蜘蛛の巣に似た大きな橋のひとつをよく使っていた。そこにもティノス像が置かれていた。近くにあるベンチから夕暮れの海を望むのが好きで、ルミエールが毎日隣に居た頃から習慣になっていた。気が向けばその像の傍に生えた雑草を毟り、風に飛ばされ落ちた花を拾い供え直したりした。ティノスはこのコエラカントスを囲う海にたまに姿を見せ、ステッラも何度か空を飛んでいる姿を見た。その生き物はヒトの住む土地に降り立つこともなく海の上でぐるぐると円を描きながらヒトの前に現れた。  久々に市街に帰ってきたルミエールとまたこのベンチを訪れ、2人並び海を望む。ルミエールは様々なことを話し、今までのことを訊ねた。寡黙なステッラもこのときばかりは饒舌になった。よく笑いよく喋るルミエールは途中から相槌も打たなくなってステッラの指にリングを嵌めると素知らぬ顔をして元に戻った。核心的な言葉はなく、ステッラは指に嵌った銀色のリングを眺めることしか出来なかった。明日にはルミエールはまた軍部の寮生活に戻ってしまう。だが何も訊けなかった。指にはリングが輝いているくせ、互いに何もなかったふりをして別れる。ルミエールに対する淡かった恋心は文通を重ねそして短かい時間を経て燃え上がっていたことを自覚する。指輪の意味が問えず、その意図も分からず、かといって外すことも出来なかった。別れてルミエールの出立(しゅったつ)を見送ってもそこにやはり言葉はなかった。それからは彼との思い出が詰まった大橋で指輪を眺め黄昏れる日々を送った。空では美しい守り神がよく飛ぶようになった。それは凶兆らしかった。ステッラはよく知らないことだったが、コエラカントスの中心部にあり軍郷(ぐんきょう)に囲われたところにあるラブカ神殿の巫女パーラ・ン=クーが人里に降りてきたことでそのことを知った。彼女の訪問している間大橋は封鎖され、ステッラは指輪と対話をする場を失うと市街地と軍郷を隔てる円形に整備された河川を次の場所に選んだ。河川の向こうは要塞になり、その奥でルミエールは暮らしている。空は繋がっていて、目に見える場所だというのにステッラは惑った。ただ彼の気持ちがどうであろうとステッラの中では決まっている。他の者に目を向けようとしても想ってしまうのはルミエールばかりで、ルミエールでない者の中で彼を探し出そうとしていた。指輪に空の橙色が差し、やがて青を帯びていく。煌くたび胸を射される。  ルミエールの暮らす要塞を見据え黄昏れて過ごしたある日、ずぶ濡れの女が現れた。彼女はただ色が白いとか日に焼けたことがないとかいう程度の白さではなく、透けるような不自然な白さがあった。全身はずぶ濡れで何よりも裸だった。顔を見て直感的にステッラは女と判断したが胸部は平たく筋を張り、下半身には体外に露出した性器があった。内股になりながら膝を震わせ、時折跛行する。なんらかの事情で歩行に障害があるか、あるいは腰を痛めている感じがあった。宝石のように青い目は周りの奇異に満ちたり同情も混じっている視線や声にまったく頓着せず真っ直ぐステッラを捉え、今にも転びそうな足取りでレンガ畳みを歩いた。裸足では突き出たレンガの角や小石、落ちているガラスの破片で痛い思いをするだろう。女は喉の隆起を震わせて色のない、発光したように白い唇で何か言ったが漏れるのは空気だけでほとんど音にはならなかった。甲高く潰れたような声はわずかに出ていたがやはりステッラには何も伝わらなかった。目の前まで迫られ、欄干に置いた手に白光りした体温のない手を重ねられる。彼女はステッラに鼻先が触れそうなほど顔を近付けた。距離間を無視した接近に戸惑い、顔を背ける。女は拒否を感じ取ったのか、身を引くと、欄干を飛び越え環状に整えられた河川の中に落ちていった。周囲から悲鳴が上がった。しかし水飛沫はいつまで経っても上がらず音も聞こえなかった。この事件は多少なりともステッラに打撃を与え、彼はルミエールを想う場所をなくし、通学以外は家に籠ることが多くなった。姉のワーテルヴァルはルミエールと何かあったのかと心配した。彼の妹のレーゲンも遠回しに2人の関係を案じている節があった。ルミエールの手紙は指輪と入れ替わるように途切れ、それを昇進した多忙のせいだと思うことにしていた。しかし妹には忠実(まめ)に書いているらしかった。それは唯一の肉親であるからだと思うようにしていた。恋心を知られ、手切れ金代わりの高価な品なのかと不安に陥り眠れない夜もあった。手切れ金代わりどころか、その指輪はステッラの左手で常に輝いている。伽話好きのレーゲンは現実主義のくせ、その指輪が誰に贈られたかも知らないで、このコエラカントスの地中で採れるホープリヴァイアという金属のようだと言った。ティノスはこの深海の涙と称されるホープリヴァイアを守るためコエラカントスを舞っているのだという。しかしそれは幻の鉱物と呼ばれるほど希少価値が高く、まず一般的な経済力や立場で買えるものではなかった。それでもレーゲンは冗談なのか本気なのかステッラの指輪をホープリヴァイアのようだと言い、触れてみることも恐れ彼の指に嵌っている様を熱心に眺めた。そして彼女は「ホープリヴァイアはただの石で、持ち主次第でホープリヴァイアになるのだ」と持論を呈してはまたうっとりと兄代わりの指輪を眺めた。  引き籠りがちになってから程なくして帰宅途中にまた、あらゆる人種の肉感を越えた不自然な発光を伴う容貌の持主が現れた。やはりその者は人目を引いた。前に会った女と同じような雰囲気だったが髪は膝に至るほど長く、身体付きも丸みを帯びていた。また全裸で、胸の膨らみはあったものの性器は体外に露出していた。男女両方の特徴が見られたがステッラにはやはり女という感じがした。彼女はしなやかな腕をステッラへ向け、掌から青い石を出した。ルミエールと幼い頃に見た手品師が手や帽子からカードや白鳩を出すようにこの発光したように白い女も掌から青く透き通った石を、掴み取った砂利のように手から溢した。ステッラは恐ろしくなったがその石と同じような深い青の瞳に射抜かれると足が竦んだ。女は一歩一歩(にじ)寄り、首を傾げた。掌から溢れる石が落ちていく。ステッラは拒絶するようにゆるゆると(かぶり)を振った。 「ス……き、す…キ………す…てぃーラ、」  成長期を終えたと思われるほどの体型の女はまだ幼い子供のような声で辿々しく喋った。彼女は青い石を落としながら迫り、ステッラは激しく首を振った。青い目はまだ訳が分からなそうな様子だった。ステッラは女から目を逸らした。落ちた宝石はすべて砂に変わり、そこに砂の小山で出来ている。彼女に触れたら砂になると思った。女は動けないステッラの顔を覗き込み、鼻先を近付ける。しかし大橋のほうから駆け付けたパーラ・ン=クーの叫ぶような声によってステッラはやっと動くことを許された。白光りする男体と女性を併せ持った女は以前の者とは違いしなやかに歩いた。いつの間にか集まった野次馬は奇妙な人物を避けた。ステッラは逃げ出した。あの怪人はまた来ると気がしてならなかった。指輪を嵌めた左手を抱いてステッラは部屋の中で蹲る。唇が触れそうなほど妙な女に絡まれ、今回は好きだと確かに呟かれた。異国語なのかそういう喋り方なのか、名まで告げられると激しい嫌悪に苛まれる。ルミエールが堪らなく好きだった。何か約束があるわけでも確認をしたわけでもなかったが、この片想いを汚されたような心地になった。ルミエールに恋慕する資格を奪われたような。ワーテルヴァルは帰宅した弟の(ふさ)ぎ込みように気を揉んだ。  ステッラの家にラブカ神殿からの遣いが来たのはその出来事から間もなくだった。家を張られていたらしかった。ワーテルヴァルは弟を慮ったが神殿の遣いは大事なのだと言って半ば強制的にステッラは赴かねばならなかった。ラブカ神殿は軍事要塞や軍事施設に囲まれながらも高地に造られ、広い敷地と開放的な空の下にあった。絵本で見るような空中庭園といった感じがあったがそれは外観だけで中は薄暗く冷たかった。そこで大神官コライユに会わされた。彼女は褐色の肌に赤みがかった髪が特徴的で背が高かった。この大神官は守神ティノスの上位にある大神龍レガレクスの血を引き、その特異な体質ゆえに人の中では暮らせずこの神殿で一生を終える運命らしかった。彼女は俗世間から離されたような暮らしをしていたが口を開くと意外にも人懐こく気さくだった。はじめは世間話から入り、神殿の者伝てに世間のことをステッラに問うたりしていた。  それで、ステッラが呼ばれた理由というのがコエラカントス内で見られた謎の人物のことについての忠告だった。大神龍レグレクスは大変に「お怒りになって」いるそうだった。それはホープリヴァイアが大量に偽られたことが原因だという。ステッラは意味が分からずにいたが、青い宝石のことだと控えていたパーラ・ン=クーは説明した。混乱は消えないままステッラは訳も分からず大神官の話を聞いていた。意味が分かったのは、あの発光したような怪人はティノスで、そのティノスはステッラを気に入っている、そして宝石を渡されても偽物であり大神龍レグレクスの怒りに触れるため受け取るなということだった。終わりにこの忠告の延長なのか、大神官コレイユは神妙な顔をして配偶者や婚約者、恋人、想人はいるのかと私的な質問を投げた。コエラカントス内では左手の薬指に銀の細いリングを嵌めるのは色恋沙汰の中にいることを意味するため、そのことを世間話ついでに訊ねているものとステッラは思った。ルミエールの存在をどう位置付け、何と表現していいかも分からず、居ないと答えた。コレイユはパーラ・ン=クーと顔を見合わせ安堵した様子をみせてから用が済んだことをやんわりと告げた。  ティノスの化身が現れたのはラブカ神殿に連れて行かれた数日後だった。今度は背の高い青年といった風貌で、やはり全裸だった。少しルミエールに似ているところがあった。正体が分かれば、すれ違う飼犬に懐かれたような気分にしかならなかった。ティノスが化けている発光した裸体の青年は引き攣ったように口角を上げてステッラに近寄る。笑みを模しているようだったが、ルミエールの屈託のない笑顔と比べてしまうと、いくら彼に似ていてもまったくの別人だった。ティノスはステッラの服を摘むとエサをもらう飼猫と大差なく仕草で縋り付き、彼の鼻先に眩しいほど白い鼻先を当てた。頭の中に夥しい情報が入り込む。ティノス像に花を備え直す姿、ベンチに座っている姿、指輪を空に翳す姿、様々な自身の姿を第三者の目線から見せられる。それは白黒で、ティノスには色が見えないようだった。白光りする青年は呆気にとられているステッラに頬を寄せ、身体を擦り付けた。 「ス…き……すテぃー、ラ、す、き…」  体温のない、むしろ冷たい舌でティノスはステッラを舐めた。体当たり同然に身体を擦り付け、跳ねた短い髪を肩や腹に撫でさせにくる。その様は犬であり猫だった。しかしステッラに()し掛かり、押し倒し、跨がる仕草に移っていくと人懐こい愛玩動物に似ている程度の認識から外れた。性別があるのか、互いの雌雄を理解しているのか分からなかったがティノスは明らかに交尾をしようとしていた。ステッラはティノスを押し除ける。下半身に乗る体重は成長期を終えた頃合いの男性そのもので、さらにこの者は容赦なく全体重でステッラの下肢を跨いでいた。彼は遠ざかるように上体を倒す。真っ白く光を放つ手が伸ばされ、青い宝石を生み出す。掌から落ち、ステッラの胸や腹に転がった。首を振る。ルミエールに似た目元の奥の、彼とはまったく違う青い瞳は鏡のようにステッラを見つめる。やめてくれ、と訴えた。青い宝石は砂へ変わっていく。空が唸り、暗雲に埋め尽くされた。雷鳴が轟く。雨が降り始め、瞬く間に強まった。地響きと思うような鳥に似た鳴き声が空を劈く。ステッラの眼前にいたルミエール似の青年はいつの間にか消え、白い怪竜が飛び立つ。ステッラは固唾を飲んだ。指輪を握り締める。ルミエールに似ていた。そう思ったことをつらく思った。ティノスに交尾相手として見られていることにも動揺した。ただ愛玩動物が飼主たちに懐くようなものではなかったのだ。ステッラは混乱と一種の恐怖を抱いて家に帰った。ワーテルヴァルはヒステリックになりながらずぶ濡れなだけでなく服を砂だらけにしている弟をひどく心配した。姉に勉強を教わりに来ていたレーゲンもまたこの兄代わりが悪天候の中海に行ったものとして腫物に触れるかの如く気を遣った。そしてルミエールの配属が決まり、近々街に降りてくることを話した。色々なことが決まるまでは手紙に記せず、手紙を書いても漏らしてしまいそうだったのだと彼の妹から聞かされる。ステッラは安堵感に涙を流した。ワーテルヴァルも弟を元気付けたらしいこのことに喜びを示した。雨風は嵐のように強く、雷はうるさいほどだったが、ステッラは天気のことなどまるで忘れ、指輪を握り締めて歓喜した。ルミエールが帰ってくる。早く会いたい。それだけだった。彼に会えば忌まわしく(おぞま)しい出来事もすぐに忘れてしまえる。ティノスだのレグレクスだのラブカ神殿だのは彼の妹が喜びそうなまるで遠くの大きな話だった。遠くで鳥の不気味な雄叫びが響く。

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