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第6話
藻に覆われ、新たな生態系を築いた海底遺跡の周りを白い怪竜が泳ぎ回る。骨張った翼は退化し、鰭へと変貌していった。白い海竜は底無しの深海に落ちた巨大な遺跡の周りを無尽に泳ぎ回る。
◇
セシールは人肌の質感と温もりに目が覚めた。股間が妙に湿り、柔らかく、しかしきつさを持って締め上げられる。自涜によって得られるような快感は自涜よりも深く広く全身に広がった。
「ン…っんむ、」
射精欲が限界にまで到達し、習慣は飛沫を恐れてティッシュを探すよりも手による詮を試みたが己の股間には硬い髪の感触があった。それが何なのか確認するよりもはやく、激しく追い立てられ腰を突き上げてしまう。濡れた窄まりの深くで迸る。
「んっ…く、っ」
温かく瀞む中を何度か突いた。相手が誰なのか判断がついてもまだ覚めきれない頭では簡単に肉体を制御することが出来ず、射精に勤しむ。ディーノは全裸で、同じ全裸のセシールの下半身に暫く顔を埋め、最後で精を搾り取った。顔を上げ、何度も嚥下に喉を鳴らす。
「鰐嶋サン…起きました…?」
ディーノは横たわるセシールに添い寝するように素肌を寄せた。
「ビックリしましたヨ!でも良かった、目、覚めて…」
周りを見渡すと岩場にいた。高所に草木が伸びているのが見えたが登れるような岩肌ではなかった。空は晴れ、水面は煌めき、岩礁を浸す海水も透けて照っている。嵐一過という感じがあった。
「君がここまで運んだのか」
「うん。おで、泳ぐの好きなんですヨ」
「…そうか。ありがとう」
ディーノは軽快に首を振る。
「鰐嶋サンは?大丈夫ですか?どこか痛いトコとかないですか?」
「ない。君は」
「おでは全然へーきですヨ」
彼は脱がせた服を乾かしていたらしく、絞られた跡のあるシャツを渡した。
「雨で洗ったからちょっとばっちぃかもですケド」
「ありがとう」
下だけ履いて、セシールは眩い水面を眺めていた。同じく上半身を晒すディーノが擦り寄った。匂いを付けたがる動物のようだった。彼は股間を張らせ、忙しなく身動(みじろ)いだ。セシールは横目で何度かそれを確認する。少し離れた岩場の陰でならば唯一ここにいる他者の目も誤魔化せる。しかしディーノはセシールの肩や腕に頬や髪を寄せるばかりだった。
『抜いてきたらいいジョ~!船が通らないか見張ってるから~』
ディーノはどこからともなく間近で聞こえる友の声にきょろきょろと辺りを見回した。
『ワケあって外に出られないんだジョ~。我慢は良くないナイン』
「だ、大丈夫!」
日に焼けた顔を赤くしてディーノは俯いてしまった。セシールは自身の欲を飲ませてしまった後ろめたさから膨らんだ隣の股間に手を伸ばす。
「鰐嶋サっ……触っちゃ、ダ……メ、」
芯を持つそこを布の上から形を確かめるように揉みしだく。ディーノは下肢を小刻みに震わせた。セシールはあてもなく空と海の境界に強く引かれた紺の線を凝然と望み、擬似的に手淫を施す。
「待って、鰐嶋サっ!出ちゃ……っ待って、ぁっ!」
彼は長いこと耐えていたのか、まだ緩やかな刺激であったにもかかわらず膝を開いて腰を突き出すような動きをした。それが野性的で発情した牡犬のようだった。軽く厭わしさを覚える品のない色気、どこかあどけない卑猥な感じを醸し、ディーノは後ろ手に凭れ、セシールの手で自ら膨らみを摩らせた。眉を寄せ、困惑し、振動している。
「鰐嶋サ…っ、あぅ…ッ!」
声が上擦っていくのを聞き、前を開いた。素手で触れる肉感に狼狽える。また催淫剤を使ったのかと思うほど濡れている。波の音とは別の水気を持った音が短い間隔で耳を打つ。セシールはスタッフたちのことや、こうなるに至る直前のことを考えていた。
「あっ……気持ちいっ…ンッぁ、」
扱く手が速まり、ディーノの口からは曇った声が漏れた。熱芯は今にも限界を迎えそうになっていた。荒々しい息と清々しい波の音が乖離した世界のものに聞こえた。片方の掌は彼の体温に溶けていたが潮風は涼しかった。
「放して、放して…鰐嶋サンのコト、んっ……ぁっ、好きになっちゃうヨっ、あっ…!」
ディーノは小さく戦慄 いた。乾いた岩に白濁が弾け飛ぶ。それからセシールの腕を掴み、身体を預けて絶頂の余韻に浸る。何も飛ばなくなるまでセシールは手を動かした。
「すごく…気持ち良かったです…」
「そうか」
やがてディーノに絡まれている方の肩が重くなった。寝息が潮騒に紛れる。ここに辿り着いてからずっと起きていたのかも知れない。セシールは邪険に扱うこともできずそのまま寝かせた。脳裏をまた不思議な光景が襲う。水中を揺蕩い、不自由なはずで肉体から解き放たれる腕から指輪が抜けていく。大切なものだった。命よりも、命と同じくらい。死んだ想人の手を離してしまう。小さなリングは目の前を漂い、淡い色を映す水面から真っ直ぐ日射しが注がれ胸を穿った。
轟音で浅く寝落ちていたことに気付いた。うるさいくらいだったがディーノはまだ眠っていた。偶然ここに用があったか、偶々遭難している者たちを見つけたのか、モーターボートは器用に小回りを利かせ、2人の前で着岸する。降りてきたのはアクアマリンで、他に乗員はいないようだった。彼女は上品にピンクのロングスカートを摘み上げ、白のストラップが光るコルクサンダルで岩場に移った。セシールに身を寄せ眠るディーノを優しい眼差しで見下ろし、彼等の前で立ち止まる。
「よくここが分かったな」
アクアマリンは微笑むだけだった。セシールはディーノを起こそうとしたが、彼は目覚めず抱え上げるものの、意識のない背丈もそう変わらない相手は重く、ディーノを揺り起こす。彼はぼんやりしていた。目元を擦り、セシールに縋る。
「姉ちゃん…?」
ディーノはモーターボートに乗るアクアマリンの後姿を見て寝呆けたことを呟いた。酩酊しているような彼を支えながら小舟に乗せる。体調が悪いのかシートに座るとそのまま横になった。セシールは彼に膝を貸す。アクアマリンは手慣れた様子でモーターボートを操縦した。
「苦労かけた」
「いいえ、ご無事でよかったです」
アクアマリンは朗らかに笑った。遠くに流されたわけではないらしく、すぐに桟橋に着いた。そこはこのモーターボートを借りたところなのかセシールの知らない場所だった。船内にまだ寝ているディーノを残し、案内される。桟橋を降り、岩肌に作られた階段を登る。そこにはコテージのようなものがあった。庭にはよく整えられた木々が濃い影を作り、青々しく生い茂る草花の絨毯が広がっている。撮影現場にしているディーノの別荘ほどの規模や豪奢さはなかったが、避暑地の別荘という感じがあった。
「シャワーを浴びるといいですよ」
アクアマリンの家の所有地らしかった。彼女はセシールを建物の中に促した後、船内に残したディーノを迎えに行った。内装は吹き抜けの2階建てで、天井にはシーリングファンが回り、壁紙は白く、等間隔に据えられたフィックス窓から程よく明かりが入っていた。バスルームは玄関の真横から伸びる暗い廊下の先にあった。ガラスのパーテーションで3つほどシャワー用の個室とも言い切れない空間が設けられ、さらにその先にドアのない部屋があり猫足のバスタブが見えた。タオルラックからロールケーキを思わせる畳まれ方のバスタオルを借り、セシールはその控えめな気性からバスタブの置かれた部屋側の端の個室に入った。新品のアクリル板のような透明度のパーテーションはまるきり目隠しとして機能せず、落ち着かないままシャワーを浴びる。海水に浸り、雨水で洗ったという衣類もそこで適当に洗い直した。それからすぐにディーノもやってきてひとつ空けた個室のシャワーを使った。彼は安堵の溜息や気分を緩めた声を漏らし湯を浴びた。均整のとれた筋肉質な肉体をセシールは観賞してしまい、目が合うと人懐こく笑みを向けられる。浅黒い肌に水滴が点々と弾け、泡が落ちていく。
「気持ち良いですネ!」
シャンプーを揉み込み、腋窩が無防備に晒される。張りのある腕や胸、脇腹の筋肉が質感を持って照っている。屈託のない笑顔を向けられ胸の奥が疼いた。恋人の面影をそこに見てしまった。セシールはタオルを巻いてバスルームを出た。アクアマリンは外で待っていたらしく、バスローブを渡し、彼の手にある衣服を持っていった。セシールはリビングのフィクス窓に立ち、日に当たりながら裏庭の広大な花畑を眺めていた。まるで花の海だった。白い花が綺麗に咲き、意思を持たないはずのその植物たちには植物なりの表情が窺えた。
「プロデューサーさん」
アクアマリンが後ろから声を掛けた。セシールは振り返ろうとして動けなくなる。緊張感が走り抜け、硬直する。
「覚悟は決まりましたか、好きな人を忘れる決意は?」
彼女は上品で透明感のある、普段の穏和で生真面目な声音をしていた。突拍子もない発言が打ち砕かれるほど彼女の態度は整然としている。
「ヒトというのは、神を形作り漠然と据えただけの動物に過ぎないのですね。それでもあの子が望むなら、わたしはね、親をも殺すんです」
びたっ、びたっ、とワックスの効いたフローリングに何か肉厚なものが叩き付けられているような物音がした。
「あの子との海旅は、プロデューサーさんの罪を思い出させてくれましたか。ねぇ、ステッラ」
セシールは外で揺れる花を見ていることしか出来なかった。アクアマリンの言っていることの意味が分からず、一点目についた花を見澄ました。
「よくもあの子を傷付けてくれましたね。よくも!」
律儀で皆のまとめ役だったアクアマリンからは想像もつかない、しかし内面的には抑圧されていそうな激情が露わになる。びたん、びたん、と肉を打つような、肉で打っているような音は強さを増し、セシールはその正体を確かめたくて仕方がなかった。
「すべてを忘れて受け入れろ、ステッラ!」
全身を縛り付けるような緊張が解け、セシールは振り返った。アクアマリンがいるはずのそこにはエイクレアが立っていた。彼は快活な笑みを浮かべ、「久し振りだナッス」と言わんばかりに手を振った。
「エイクレア?」
海に沈んでいった彼はセシールへ手を伸ばした。恋人を追い海に入ってしまうようなところのある彼は迷いも躊躇もなくその手に応えた。途端に洒落たリビングは壁紙を剥がすように、カーテンを開くように消えていく。
「ネムラセテクレヨ」
エイクレアは困ったように笑って言った。そしてまた「ネムラセテクレ」と言った。すまなそうに下がる眉は彼らしくなかった。解脱 シタイジョ…。ふざけた口調で彼は本心を誤魔化して、陽気な人物でいたがった。誰よりも演技派な人だった。エイクレアに手を引かれ、網膜が焼かれるほど眩しい先に進まなければならなかった。おそるおそる目蓋を開けるとそこに故人はもう居なかった。指は握っていた彼の手の厚さだけ保っている。
眩しかったのは一瞬だけだった。それが死の間際、沈没間際、彼の目にした最期の光景なのではないかと疑問が過った。その感受性は自らを苦しめ、どうにも悲しく、痛ましく、つらい心持ちになった。たとえどこにいようと膝から崩れ落ちそうなって、実際、セシールは膝を着いた。顔を覆って感情の高波をやり過ごす。沈むことも転覆することもなく、浮いて揺れ、流されるのが常だった。暫く身を縮めて溢れ出しそうになる潮 を抑えた。それから立った。雲に囲われたオレンジの日差しと青く暮れなずむ空がまず目に入った。周りは砂漠のようで、荒廃し、枯草ならば目に入ったが緑は見つからなかった。古びて崩れたビルや看板、突き出た鉄骨は遺跡か何かと跡地を思わせる。遠くに航空機の尾部の残骸が地面に突き刺さり、また一部は生えてもいた。錆びやよく分からない苔のようなものに埋め尽くされていたが、恋人の乗った機体と色やデザインが同じであることがかろうじて判別できた。とするとここは海のはずだった。
「鰐嶋サン」
誰もいない荒れた土地を潤すような、張りのある声がした。セシールは少し躊躇ってからゆっくりと振り返る。平坦な瓦礫か何かをベッドのようにしてディーノが寝そべっている。しかし彼はヒトではなかった。頭と首、上半身は確かにヒトだったが、下半身は真っ白な魚で、非常に長い尾部をしていた。ベッド代わりにしてる瓦礫か置物の上から垂れた蛇と変わりのない尾には砂が纏わりついている。
「鰐嶋サン…ごめんネ」
尾が、びたんっと砂を叩いた。セシールは言葉を失くす。
「鰐嶋サンのコト、好きになっちゃって…ずっと、ずっと、ずっと前から、ずっと好きだったの…」
びたん、びたんっと長過ぎるくらいの尾が砂を散らす。セシールはヒトでないディーノにも、蛇でも魚でもない生き物にも関心を持てず踵を返し恋人が乗っていたはずの残骸に向かっていった。沈没した機体の下に人影があった。エイクレアだった。セシールは彼に飛び付いた。走り寄れば両腕を広げて待ち構える恋人は棒立ちで彼を受け止めるだけだった。
「ネムラセテクレヨ、ステッラ…」
彼がエイクレアではないと気付いてしまう。赤みのある鰭が生えた、黒い鱗に覆われた尾が恋人の脚の狭間に垂れていた。びたん、びたんっと砂に打ち付けられている。
「ネムラセテ、クレヨ…?」
エイクレアの姿をした怪物はセシールの右手に指輪を嵌めた。俺 ノコト、アイシテルモンナッナッナ?。戯けた喋り方は間違いなく彼だった。セシールは指で光る銀輪に戸惑う。見覚えがあるようで、よくある槌目の指輪は誰もが嵌め、ジュエリーブランドの店舗でも比較的安値で並んでいる。
「ネムラセテクレヨ…」
びたんっ、びたんっと砂が跳ねる。黒ずんだ尾は砂を躙 り、苛立っているような感じがあった。
「帰ろう、エイクレア…」
彼の腕を掴むものの、セシールは砂を払う長い尾から目が離せなかった。エイクレアの姿をしているがエイクレアではない。しかしエイクレアの姿をしているのなら。反応しない恋人に、セシールは徐々に自身を恥じていく。恋人は死んだという認識と、死んだら終わるという思想に矛盾が生じ、まだどこかで、この地の上でなくとも、たとえば自身の認知の中で生きていれば、同じ姿の違う者へ希望と安らぎを見出すことが裏切りのように思えた。認知の中では彼を完全に死なせてやれなかった。セシールは人違いだったとばかりに触れた腕から手を垂らした。指輪も外した。受け取らない彼の手を拾って握らせる。あのエイクレアでないなら受け取れない。しかし視覚情報は感情に訴えかけ、決心がつかなかった。
「ネムラセテクレヨ…ステッラ…」
「悪かった。俺が馬鹿みたいに過ごしているから、ネムラセテやれなかった」
エイクレアの腹は紙が燃えるように黒くなり、穴が空いていく。セシールは喉を灼かれ、声が出なくなった。エイクレアの皮は剥がれ、険しい顔をしたアクアマリンがそこに立っていた。彼女は上半身だけが彼女で、下半身は巨大なトカゲかイグアナのような曲がった脚をして鱗に覆われていた。黒ずんだ皮質で、紅色の鬣 状の棘が背部に伸びている。硬化した大きな手に首を掴まれる。親指と人差し指だけでヒトの首に回り、その2本の指で骨まで折れてしまいそうだった。首の皮膚を掌の鱗が軟く削っている。
「ネムラセテクレヨ…ステッラ。ネムラセテクレヨ、俺 …モウ、ウマレタクナインダジョ…」
顔はアクアマリンで、身体は見慣れない巨大な爬虫類、声と話し方はエイクレアだった。セシールはその異様さよりも彼の声を使われたことと、彼の声で絶望を口にされたことに涙した。荒れた砂漠に水が落ち、そこから海が生まれ、セシールは砂の下から溢れ出る大波に呑まれた。地に足の裏をつけず、あとは漂うだけでよかったはずだった。セシールは身体を掴まれ、泳がされる。恋人に生まれたくないと言われたことばかりが頭を占め、涙は水中の中でも止まらなかった。彼が生まれ変わらない来世に一体何の意味があるのだろう?セシールは生まれ変わることに恐怖した。あれは彼ではない。しかし耳はあれを彼の声として認識していた。身体を掴むものに陸へ上げられる。セシールは涙が止まらず、砂地があったはずの海原は荒れていた。
「ごめんなさい…好きになっちゃって、ごめんなさいっス…」
白い鱗に浅黒いヒトの肌をした半魚人はセシールにキュイキュイと鳴いた。彼はヒトでも魚でもない怪物に恐れることもなかったが、存在を気にすることもなく膝を抱いて鬱 ぎ込んだ。びたん、びたん、と白く輝かしい鱗に覆われた長過ぎるほどの尾が海を叩く。潮風がセシールの髪を揺らした。このまま石になってしまいたかったが肉は柔らかく随分を持ち続けていた。
「ステッラ…」
怪物はキュイキュイとカモメのように鳴いた。セシールは日が暮れるまで蹲っていたが、やがて涸れ果て、キュイキュイ鳴いている白いヒト形の怪物を一瞥することもなく黒墨の海に身を投げてしまった。
『怒り狂った爆海 の堕狗竜 アンジェロペッシェは、弟である智都 の守護神ティノスに罰を与えんとする大神 レグレクスを忽 ち噛み殺し、八つ裂きにしてしまいました。その時海に落ちた大神レグレクスの亡骸がこの大地になり、こぼれ落ちた心臓部がこの臨海先進都市ラティメリアになったとされています』
『エトワール=ストラール・チョコレート株式会社はこのアンジェロペッシュ伝説を受け、古代都市コエラカントスに散った恋人をモチーフに商業展開を行なっております』
『バリアリーフホールディングスカンパニーはアンジェロペッシュ伝説に於いて海の底に消えたという幻の鉱物シーラカルクスで作られた指輪の発見とともに海の生態系を保護する活動を応援しています』
『監督!この宝石を使って1本映画撮りましょう。恋人にホープリヴァイアを買って帰った男が帰りの飛行機で海に堕ちるところから始まるヒストリカルラブストーリーです!』
◇
砂浜に打ち上げられていた。両手は何者かの手を握り、反発のある筋肉質な胸や腹を敷いている。よく鍛えられ盛り上がりのある胸や割れた腹の浅黒い肌に砂が付き、乱れた後のような妙な色気があった。閃きに似た頭痛に襲われる。繋いでいた手を放し、上体を起こす。下敷きにしていた青年は意識がなかった。腰から下は平均的な成人男性の身長よりも大きな魚に咥えられているのかと思うような形状をしていた。絵本で見たことがある人魚そのものだった。ただ絵本の記号化された造形よりも尾部が長く、ヒトの皮膚と鱗の境目は生々しさがあり、性別問わずヒトならば性器のある部分はヒトのシルエットを残してはいたが魚類の体表と同じだった。セシールは立ち上がり、その半魚人を気にしたが海に呼ばれた。高く上がる太陽が水平線の一部を白く歪ませている。知り合いの妹は、あの日光による凹みが、古代都市に消えた幻の指輪の正体なのだと熱弁していたような気がする。そして知り合いはその海に堕ちた。妹が大好きな悲恋映画「深海の涙」と同じように恋人を待たせたまま。何か思い当たる節があるわけでもなかったが言いようのない悲しみと不安に囚われる。
「弟と番 いになってください。弟をアイシテください。何度でもわたしはこの世を作り替えられるんです。エイクレアさんを思い出してください。ルミエールさんを想ってください。あれから何度も蘇っては、貴方を目の前に何千回何万回も潰える想人を。何も無い明日を贈る。それがあの方に対する最高のプレゼントなんです」
漣の音を女の凛とした声が消した。セシールは立ち止まらず、深みにはまる。足を取られ、泳ぎもせずに沈んだ。長い爪を持たないヒトでは喉を掻き切ることもできず、長い牙を持たないヒトでは舌を噛み砕くこともできなかった。生きた身体は海に溶けることも許されない。顔も鮮明に浮かばない何者かの蟠 りを断ち、女の言い分に身を委ねてしまおうかと思い始めた。両腕は空を飛ぶよりも自由だった。意識が薄らぐと、また浅瀬から出直している。
「何も生まなくていいんです。何も…ただアイシ、アイサレるだけでいいと言っているんです。ヒトはそれを望んでいるのでしょう?ヒトは自然の機能 から逃れたいんですものね?」
ウィンドウチャイムを思わせる繊細な声はわずかな苛立ちを持っていた。打ち寄せ白くなる波の下で砂を踏む自分の足を彼は呆然と見ていた。
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