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第一章 第12話

 翌朝出勤してみると、自分のデスクに黒木先生の秘書からの手書きのメモが有った。祐樹がパソコンを余り触らないのを知っている黒木先生の心配りだろう。プライベートはともかく仕事では几帳面でないと務まらない仕事だ。  その上黒木先生は他人の気持ちを斟酌(しんしゃく)出来る人間だ。それが、こうしてメモという形なのだろうと思った。 ――手が空いたら、研究室まで来てくれ。話していたものを見せる。今日はオペの予定はないので何時でも良い――  祐樹の大学では准教授までが個室を与えられている。それ以下は医局に自分のデスクが有るだけだ。  更に言えば、准教授の個室よりも何倍も広く、お金が掛かっているのが教授の個室だ。そこに自分と年の変わらない香川先生が君臨するのかと思うと面白くない、まったくもって…。  担当している患者に変わりがないのを看護士に聞いてから、黒木先生の部屋を訪ねた。  温和な表情を浮かべた先生は「待っていたよ」と言い、秘書――と言っても妙齢の美女ではなく、そろそろ早い人ならば孫でも誕生しそうな女性だった――にコーヒーを頼み、そのコーヒーを祐樹が礼を言って飲み干すのを待ってくれた。秘書の存在を意識してか、当たり障りのない話をしながら。 「さて、これが例のレントゲン写真と、付属資料だ」  そう言って見せてもらった写真に愕然とする。黒木先生の言葉である程度予想はしていたが、それよりももっと酷い心臓だった。冠動脈全体にコレステロールが堆積し、狭窄が起っている。しかも手術が必要な狭窄は4箇所だ。  素人的に表現すれば、血管そのものが細くボロボロになっており、とても手術に耐えることは不可能だ。腎機能の低下も絶望的だし、糖尿病も深刻な状態だった。一時間後に脳梗塞を起こしてもおかしくない状況だった。  喉の渇きを覚えて黒木先生に確認を取る。 「この患者に手術を行ったというのですか」 「そうだ。ワーファリンとニトログリセリンの点滴を完璧に投与出来る内科医が香川先生のスタッフに居るらしい」  ワーファリンは心筋梗塞を起こさないために血液の粘度を下げる薬剤だが、これを投与した場合、脳出血を起こしてしまうと血が止まらなくなるリスクが有る。この場合も患者は死に至る。しかも副作用として腎臓に負担が掛かる。この患者の場合、腎機能も低下しているので、そちらのリスクも考えなければならない。  ニトログリセリンは、狭心症の発作を起こさせないためだろう。しかし、この量の加減も難しいと内科の医師に聞いた覚えがある。 「この状況で、しかも五時間で手術出来たのですか…」  半ば思考が止まった状態で聞いた。こんな手術、自分にはとても出来ない。 「ああ。見事にやり遂げたよ、香川先生は。まさしくゴット・ハンドに相応しい手術だった。手際の良さも指の形も。これが画像だが、君のパソコンに転送しておくので手が空けば見れば良い」  そう言って、パソコンを操作する黒木先生に頭を下げた。  自分とそう年も違わない香川先生。アメリカでどれほどの研鑽を積んだのか分からないが、想像を絶する技術と、信頼する内科医をスタッフに持っている。  憧れる気持ちはないとは言い切れなかったが、圧倒的な力量の違いにただ、妬ましいとか憎悪とかそういった言葉で表現される気持ちの方が大部分を占めていた。なまじ祐樹も手術には自信が有っただけに、プライドが木っ端微塵にされた屈辱感と無力感に打ちのめされた。

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