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第一章 第13話

 大学病院はヒエラルキー社会だ。医学部長が頂点に君臨し、その下にそれぞれの教授が存在し、その下は准教授…そして一番末端に近い所に研修医が居る。  従来ならば、勤務年数や論文の数で…言わば企業で言う年功序列が重んじられたが、公立病院でも統合の動きがある以上、実力だけで教授に抜擢される人も出現し始めた。その最たる例が香川先生だろう。彼がアメリカに渡って誰にも文句の付けようがない手術の腕前を磨き、弱冠29歳で母校の教授に納まるとは。  こちらはヒエラルキーの一番下に位置する。今までは年齢からして当たり前だと思ってきたが、時流は変わるらしい。  かと言って、自分がこの病院で培って来た手術の実績を放り投げてまで他の病院に移るのも業腹だった。研修医から始めて助手になり、医局長を務めてから准教授を目指す。もちろん最終的には教授の座が欲しい。  権勢のためだけではなく、自分の担当患者のことを考えれば、研修医では病室一つ変わらせるのも大変だ。だが、教授なら鶴の一声で病室もその患者に合ったところに移せる。そういう所も魅力的だった。  今までの常識が崩れる過渡期なのかも知れないな…。勤務時間――もちろんオペもこなした――が終った後、職員用出入り口のところでタバコを吸っているフリをしながら、いや、実際吸っていた。あのレントゲン写真が頭を離れない。羨望と嫉妬が交錯する感情を宥めるには煙草を吸うしかなかった。  黒木先生から戴いた香川先生の手術の様子は、女々しい考えだったが…直ぐには見られなかった。余計に落ち込みそうな気がしていた。  三本目の煙草に火を点けていると、同じ心臓内科の医師が通りかかった。名前は、柏木雅弘、二歳年上の先輩だ。  そう思った瞬間――香川先生と同期の可能性が有る――と閃いた。ただ祐樹の学部は留年など当たり前の学部だし、そもそも大学入試で二浪・三浪は珍しくない。  山本助手からの指示もあり、この際、彼ともじっくりと話したかった。確か酒は好きなほうだったな…と思い、声を掛ける。 「お疲れ様です。今帰りですか?」  彼もスモーカーだったなことも思い出し、煙草のパッケージを差し出した。 「一本どうですか」  彼は神経質な性格が顔に出ているタイプの人間だ。少し扱い辛い面も有る。断られるかなとの予想に反して彼は笑った。 「ちょうど、煙草を切らせていて、500m程歩かなければならないな…と思っていたところだ。有り難く戴く」  手持ちのライターで火を点け煙を美味しそうに味わっている。 「煙草ならそこの自販機…」  言いかけたところで、カードが必要なことに気付く。多忙に紛れて自分も発行してもらってないが、彼もそうのだろう。 「唐突ですが、宜しければ飲みに行きませんか」  誘ってみると、唇を嫌な感じに歪めて笑った。 「山本先生か誰かの指示か」 「いやぁ、そんなんじゃなく…そろそろ熱燗の恋しい季節ですし」  柏木は少し考えていたが、頷いた。 「但しな、山本先生には要注意だぞ」 「どういう意味ですか」  見抜かれたのは迂闊だったが、柏木先生も何かを知っている。それを知りたかった。 「奢ってくれるなら話すが…お前も無関係ではいられない話だ」  そう言って、駅の方に向かう。慌てて後を追った。

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