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第一章 第15話

 煙草を一本灰にしてから、考え深そうに、慎重に言葉を選んでいる風に柏木は言った。 「君は医局の中で噂話はしない。ナースちゃんとも一線を引いて話している。しかも、他人の噂話にも乗って来ない…その口の堅さを信頼して打ち明ける」  確かに祐樹は噂話をしない。看護士と話すと、こちらに有益な噂が聞けると分かっているが、その見返りというか、質問攻めになるのが恐かったのだ。 「彼女は居ますか」だの、「どんな女性が好きですか」だの「どんなお店で呑んでいるんですか」だの。  ゲイである自分――と言っても、女性と出来ないわけではないが、やはり男性の方が好きな性癖を誤魔化すために――あまりプライベートなことには答えたくない。だから、若い看護士には特にそういった話はしたことがなかった。看護士には看護士の噂のルートがあり、違う医局の看護士にも筒抜けであることは知っていた。  幸いと言っては何だが、今の医局の中には祐樹の好みの男性は居ない。好みの男性が居れば、さり気無く情報収集するのだが、同じ職場では恋愛が上手く行って居る時は良いが別れる時は厄介だ。なので、自分と同じ嗜好の持ち主は他で探し、職場では自分の性的倒錯が知られないように慎重に振舞っていた。そうなると、迂闊に噂話は出来ない。  畑仲医局長や山本先生はそんな自分の口の堅さを「無口さ」と勘違いして、香川先生追い落としの件を話したのだろうと思ってしまう。  柏木が空になったグラスにビールを注いでくれる。礼を言ってから、先ほどの話の続きを催促した。 「何故、柏木先生は山本先生の卑怯な振る舞いをご存知なのですか」 「君は、知っているかどうか知らないが、私には妻子が居る」  確か、佐々木先生の親戚の女性と結婚していたハズだ。 「それは存じています」 「自分でも魔が差したとしか思えないのだが、内科の某看護士に片思いしてね。しかも向こうは若くて美人だった。  一回、ダメ元で呑みに誘ったらOKの返事だった。あの時は嬉しかったな。だが、誓って不倫などではないよ。飲み友達として、美人の看護士と食事をしたり、呑みに行ったりするのが楽しかっただけだ」  柏木の目が懐かしそうな、そして悔しそうな色合いを見せる。 「そして、ある日、山本先生に呼ばれた。『君が不倫しているというのが専らの評判だ』と言われた。もちろん必死で抗弁したよ。彼女とは実際、呑みに行く以上のことはなかったし。  すると山本先生は、携帯電話を取り出して、ある画像を見せた。酔った彼女が俺の肩に顔を埋めていて、俺は、反対側の肩を抱いている画像だった。回りは盛り場だ。邪推されてもおかしくない画像だった。 『この画像が公になったら、君の奥さんも悲しむだろうし、我が大学も上層部の方では問題視されるだろう。特に佐々木准教授が悲しむ。公にしない替わりと言っては何だが…君の完成間近の論文を医師学会で発表しないでくれたまえ』と言われた。 俺は動転してその通りにした。俺の論文の代わりに山本先生が気に入っていた研修医の田中先生…あ、君も田中だったな…もちろん同姓同名だ…の論文が発表された。そっりの田中先生は実家を継ぐとか言って、と言ってもホントかどうかは分からないが病院を去ったな。  正直、俺の論文よりも優れているとは思えない論文だったが…それでも評価は上々だったよ」  悔しげにビールを飲み干した後、日本酒を追加する柏木先生を見ていた。 「…そんな事が…」 「ああ、だから山本先生には気を許すな」 「はい」 「もちろん、ここだけの話ということで…」  この際なので香川先生のことを聞いてみることにした。話題転換は柏木先生も望むところだろう。 「香川先生は学生時代、真面目な学生だったと先ほど聞きましたが、実は私はあまり覚えていないのです。同じ佐々木先生に師事していたのに…」  柏木の目が過去を彷徨うように焦点がブレる。 「そういえば、学年を問わない授業の時は、フッとどこかへ消える癖が有ったな。彼に好意を持っている女子学生がそう噂していた。他の授業は真面目に出席していたのに。 メス捌きは天才的だったよ。国家試験に受かっていなかった頃だから、もちろん献体された死体の解剖だったが」 「そうですか。佐々木先生にアメリカでの学会の手術の様子を伺いました。あの手術の手際の良さは学生時代からのものなんですね」 「ああ、あいつは成績もルックスも良かったのに、浮いた噂が聞こえてこない珍しい医学生だった。他学部の女の子がメアドを聞いても教えてくれないと嘆いているのも日常茶飯事だった」  ゲイである自分がルックスに興味を持つのは仕方ないとして、ノーマルな男性だとルックスは気にしないだろうからノーマルな柏木先生が言及するほどのレベルらしいそう思って黙っていた。 「何で、覚えていないんだろうな。あれだけ目立つ男なのに…香川先生の画像、まだ消去せずに携帯の中に入っているハズだ。見るか」  何も知らない柏木が無邪気に提案する。研修医ともなるとマメに機種変更する時間がない。だから他の職種と比較して携帯は年期の入っている物を持っている人間は多い。柏木先生も同じなのだろう。 「是非見せて下さい」  そう言うと、柏木は携帯を不器用にいじりだした。

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