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第一章 第18話

 翌朝出勤してみると、職員用出入り口のところで柏木先生に会った。彼はもう白衣を着て、煙草をせかせかと吸っている。  祐樹の姿を認めると、笑いかけてから腕時計を確かめ――出勤時間にはまだ大分余裕があることを確かめたのだろう―― 「昨日はご馳走さん。今、医局では黒木准教授と畑仲先生、そして山本センセが密談中だぞ」 「何故、黒木先生のお部屋でしないのでしょうか?」 「医局全員に聞かせる積りのようだ。但し、他の医局員もうんざりしているようだがね」  昨日、じっくり話してみて、柏木先生の人柄には人間的魅力があることに気付いた。 ――この人ならどういう体制になっても生き残っていけるだろう――  そう思った。自分もここまで達観したいのだが、昨夜の手術を観て、妬ましさばかりが募る。出発点は自分と殆ど同じなのに、あそこまで手術の腕前を上げることが出来たのも、アメリカに渡ったせいなのか、それとも天賦(てんぷ)の才能なのか…、意識しまいと思ってもジワリと心の中に闇が出来てしまう。  自分も煙草――最近は持ち歩くようになってしまった――に火を点け柏木先生と話すことにした。尤も時間は限られているが。 「医局では、香川先生招聘を反対する動きはないのでしょうか?」  柏木先生はまだ長い煙草をもみ消すと声を低めた。 「ないな。何より齋藤医学部長の鶴の一声に反対出来る人間が居ない。総学長だって遠慮している人間だ。  あの先生は医師としての才覚よりも経営者としての才覚の方が勝っている。この前もあの、何て言ったか…有名なゲーム会社の社長を口説き落として癌センターを建てたのも齋藤医学部長だ。大学病院の経営は従来、赤字だろうと問題はなかったが、今は違う。齋藤先生は悪性新生物対策と脳外科対策で大学病院を一気に黒字、しかも新聞ダネになるほどの黒字にもっていくのが野望らしいからな。すると、学長の座にも、医師学会の重鎮の座にも近くなると考えているのだろう」  自分を巻き込んだ、いわばクーデターが、こんなにも早く瓦解してしまったことにそう落胆していないことに気付く。  野心家の齋藤先生の目論見はともかく、佐々木准教授は従来のポストに留まって欲しいことだけを願いつつ、煙草をもみ消し柏木先生に挨拶し医局に向かう。 「困ったことになったよ、田中先生」  祐樹にそう言ってきたのは黒木准教授だ。 「と仰いますと」 「香川先生からメールが来た。信頼出来る内科医を1人日本に連れ帰りたいそうだ。だが、こちらの大学では、内科は内科、外科は外科だ。内科に話を通すのも厄介だ」  そこに山本センセが加わる。 「香川先生はウチの大学出身なのにどうしてそんなことが分からないのかね。非常識もはなはだしい」  怒りの口調だったが、どことなく嘘っぽい感じがするのは祐樹の気のせいだろうか。 「これは医局では対処出来ない。いわば香川先生のワガママだ。齋藤医学部長に厳重に抗議しよう」 「…そうですね。  ちなみにその知らせはどこからお知りになりました?」  素朴な疑問を抱いたので聞いてみた。 「私のメールに入っていた」  黒木先生が言った。彼は心底当惑しているように見えた。これからの医局のことや自分の身の振り方などを考えているのだろうと思った。

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